出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松平 寿子︵まつだいら ひさこ、弘化4年12月29日︵1848年2月3日︶ - 明治26年︵1893年︶3月21日︶は、江戸時代幕末期から明治の女性。石見国浜田藩主︵浜田城退去後、美作国鶴田藩主︶の松平武聰の正室。下総国佐倉藩主堀田正睦の八女。名は比佐子とも表記される。
文久2年︵1862年︶2月、浜田藩主︵越智松平家︶・松平武聰と結婚した。武聰は水戸藩9代徳川斉昭の十男で、徳川慶喜の異母弟である。
慶応元年︵1865年︶1月、長男・熊若丸︵のちの武修︶を出産した。越智松平家では、正室が嫡子を産むことは絶えてなく、また養子が続いていたため、領内挙げての喜びとなった。
浜田藩は、その領国の位置からも藩主武聰の血統からも、長州藩に対する矢面になる立場にあり、慶応2年︵1866年︶6月の第二次長州征伐では、一の手として派兵し、苦境に立たされることになった。加えて武聰はこの頃、ほとんど病床にある状態であった。浜田藩は退陣を重ね、7月18日、居城浜田城を自焼退城する。
浜田城を包囲され、単独死守が難しくなった段階で、家老等は寿子に熊若丸とともに立ち退くように進言したが、寿子は病床の武聰を置いては決して立ち退かないとし、熊若丸のみを退去させるようにと頑として受けなかったという。その後、重臣たちの協議の結果、病床の武聰も退城することとなった。
18日早朝に浜田城を出た寿子らは、その日の夕方に杵築に到着。22日まで杵築に逗留し、24日に松江に移った。松江藩主松平定安の夫人熈姫にあてた書簡が現存している︵熈姫の妹吉子は、寿子の弟正倫と婚約中であった︶。8月10日、武聰は松江のままに、寿子と熊若丸は鳥取︵武聰の異母兄池田慶徳が藩主︶に移る。慶応3年︵1867年︶1月、幕府から解兵令が出され、美作国の飛び地︵鶴田藩︶に移動するよう命じられたため、3月武聰が、6月寿子と熊若丸が美作に移った。明治2年︵1869年︶鶴田藩として版籍奉還を迎え、明治4年︵1871年︶8月、武聰・寿子らは鶴田を発ち上京した。
明治26年︵1893年︶没した。享年47。
参考文献[編集]
- 「浜田藩 松平武聰夫人 寿子(特集 300藩 大名夫人の幕末維新)」歴史読本49巻10号 2004年10月号、新人物往来社
- 『日本史人名辞典』講談社