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松本 英子(まつもと えいこ﹁ゑい子﹂とも、結婚後は永井英子 1866年5月2日-1928年3月4日)は明治期の日本の女性ジャーナリストの草分け、新聞記者。足尾銅山鉱毒事件を取材し惨状を訴えた[1]。
1866︵慶応2︶年、上総国望陀郡(現在の千葉県木更津市)の富農であった松本貞樹とふさの次女として誕生。キリスト教に入信し人道主義に開明した。東京師範学校女子部を卒業し、外務省翻訳官・家永豊吉と結婚し子を授かるが、この結婚生活は長く続かなかった[2]。1898︵明治31︶年には華族女学校(後の学習院女子大学)に教員として奉職し、その後東京日日新聞(毎日新聞)に入社した[1]。
1901︵明治34︶年11月から翌年2月にかけて、足尾銅山鉱毒事件を取材し、59回にわたるルポルタージュ記事を執筆した。政府は同年3月に鉱毒問題調査委員会を設置したが、同時に反対運動の弾圧も行い、この中で英子も警察に召喚された。一連の新聞記事の連載を終えそれを﹃鉱毒地の惨状﹄という本にまとめると、この年の秋に渡米した[2]。
37歳で渡米しパシフィック大学などで学び、ジャーナリストの永井元と再婚した[3]。﹃在米婦人新報﹄などに寄稿を続けた。1928︵昭和3︶年に米国で亡くなった[4]。
(一)^ ab﹃朝日日本歴史人物事典﹄朝日新聞社、1994年。
(二)^ ab江刺昭子﹃女のくせに‥草分けの女性新聞記者たち﹄インパクト出版会、19970125。ISBN 4-7554-0061-9。
(三)^ ﹃日本人名大辞典﹄講談社、2001年。
(四)^ 府馬清1981﹃松本英子の生涯﹄昭和出版