栗栖王
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経歴
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養老7年︵723年︶無位から従四位下に叙せられる。
天平5年12月︵734年2月︶雅楽頭に任ぜられる。翌天平6年︵734年︶2月1日に朱雀門で歌垣が行われ、五位以上の風流心のある者男女240余人が参加し聖武天皇も出御したが、その際に長田王・門部王・野中王らとともに頭の一人として参加した[2]。天平9年︵737年︶従四位上、天平15年︵743年︶正四位下に昇叙。
天平12年︵740年︶に発生した藤原広嗣の乱後、それまでの平城京から恭仁京・紫香楽宮・難波宮と短期間の内に遷都が繰り返されていたが、天平17年︵745年︶5月に平城京の薬師寺に遣わされて四大寺︵薬師寺・大安寺・元興寺・興福寺︶の僧侶を集め、都をどこに置くべきかの意向を確認したところ、全員から平城京を都とすべきとの意見を得た︵この時の官職は大膳大夫︶[3]。まもなく、難波宮から平城京への遷都が行われた。
孝謙朝の天平勝宝4年︵752年︶従三位に叙せられ公卿に列すが、翌天平勝宝5年︵753年︶10月7日薨去。享年72[4]。最終官位は中務卿従三位[5]。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 養老7年(723年) 正月10日:従四位下(直叙)
- 天平5年(733年) 12月27日:雅楽頭
- 天平9年(737年) 2月14日:従四位上
- 天平15年(743年) 5月5日:正四位下
- 天平17年(745年) 5月4日:見大膳大夫
- 天平勝宝4年(752年) 7月16日:従三位
- 天平勝宝5年(753年) 10月7日:見中務卿