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楊 崇本︵よう すうほん、? - 915年︶は、唐末から五代十国時代初期の武人。岐王李茂貞の仮子。
幼い頃に李茂貞の仮子となり、李継徽︵り けいき︶と改名した。乾寧3年︵896年︶に天雄軍節度使、乾寧4年︵897年︶に静難軍節度使となり、邠州に遷った。
天復元年︵901年︶、急速な勢力拡大を遂げた李茂貞に対して、他の節度使が激しく反発し、朱全忠が李茂貞の打倒へ動き出した。朱全忠に邠州を攻められ、李継徽は怖れて降伏し、姓名を楊崇本に戻した。
ところが、朱全忠は楊崇本の妻に手をつけた。悲しみ憤る妻は夫に﹁あなたは妻も守れないのか、私は朱全忠の女になった、もう生きたくない﹂と叱責した。恥辱と憤りによって楊崇本は再び背いて李茂貞を頼り、姓名を李継徽に戻し、李茂貞や王建と共に朱全忠に対抗した。天祐3年︵906年︶、鳳翔府・邠州・涇州などの軍隊を率いて朱全忠の部将と戦ったが、大敗した。
天復14年12月22日︵西暦で915年︶、子の李彦魯により毒殺された。
伝記資料[編集]