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楊 昭︵よう しょう、開皇4年1月5日︵584年2月21日︶ - 大業2年7月23日︵606年8月31日︶︶は、中国の隋の煬帝︵楊広︶の長男。皇太子に立てられたが、早逝した。元徳太子と史称される。
開皇4年︵584年︶1月、楊広と蕭妃︵のちの蕭皇后︶の間に生まれた。大曹主と称され、祖父の文帝︵楊堅︶に特に可愛がられた。開皇15年︵595年︶、河南王に立てられた。仁寿元年︵601年︶、晋王に徙封され、内史令に任ぜられ、左衛大将軍を兼ねた。仁寿4年︵604年︶、雍州牧に転じた。煬帝が即位すると、洛陽に幸したため、楊昭は大興城で留守を守った。大業元年︵605年︶、皇太子に立てられた。楊昭は武力に長け、強弩をよく引き、態度は謙虚でつつましく、怒りを見せることがなかったと伝えられる。生活は質実簡素で、臣下に父母あるものにはその安否を訊ね、歳時に合わせて贈り物を送った。
大業2年︵606年︶、洛陽に向かい、煬帝の朝廷に出仕した。間もなく病の床に伏し、煬帝が巫者に見せると房陵王︵楊勇︶の祟りと言われた。7月23日、行宮で世を去った。
子に楊侑︵恭帝侑︶・楊倓・楊侗︵恭帝侗、皇泰主︶がいた。楊侗が皇帝に擁立された際、楊昭に孝成皇帝の諡号と世宗の廟号が追贈された。
伝記資料[編集]
- 『隋書』巻59 列伝第24「煬帝三男伝」
- 『北史』巻71 列伝第59「隋宗室諸王伝」