横山薫範
横山 薫範(一等兵曹時代) | |
生誕 |
1917年11月23日 日本 鳥取県東伯郡琴浦町上法万 |
死没 |
1941年12月8日(24歳没) アメリカ合衆国 ハワイ準州真珠湾 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1934年 - 1941年 |
最終階級 | 海軍特務少尉 |
墓所 | 鳥取県東伯郡琴浦町上法万の共同墓地 |
横山 薫範︵よこやま しげのり、1917年︵大正6年︶11月23日 - 1941年︵昭和16年︶12月8日︶は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇﹁甲標的﹂搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍特務少尉。
艇長
古野繁実少佐
12月7日午前2時15分︵以下、現地時間︶、真珠湾の湾口150度、12.6海里の地点[2]から艇長・古野繁実中尉とともに伊一八潜水艦から出撃。午前6時30分、雑役艦﹁アンタレス﹂を追尾していた﹁特潜﹂が米海軍特設沿岸掃海艇﹁コンドル﹂ に発見され、﹁PBY カタリナ﹂飛行艇が発見位置に発炎筒を投下。15分後駆逐艦﹁ウォード﹂は砲撃を開始し、続けて爆雷攻撃により﹁特潜﹂を撃沈した。この時、撃沈された﹁特潜﹂が古野・横山艇と推測する説がある[6]。真珠湾特別攻撃隊の指揮官・佐々木半九は、資料不足などの制約があるとした上で、古野・横山艇は別の﹁特潜﹂である可能性も指摘している[7][2]。米側には、1960年に真珠湾近隣のケエヒラグーンで発見され引揚られた﹁特潜﹂が、若干の遺留品から艇を引渡した当時、日本で古野・横山艇とされたとする説[8][9]がある。理由は異なるようだが、日本の研究者にもケエヒラグーンで発見され引揚られた﹁特潜﹂を古野・横山艇とする説の支持者がいる[10]。
人物・来歴[編集]
鳥取県出身。横山家は農業を営み、三男一女の末子である[1]。小学校高等科を卒業し、海軍を志願したが一度目は失敗し、二度目の挑戦で合格した[1]。1934年︵昭和9年︶6月呉海兵団に入団。同期生に同じく九軍神とされた稲垣清がいる。海軍軍人[編集]
海軍水兵としての基礎訓練を受け、戦艦﹁扶桑﹂乗組となる。水雷学校及び潜水学校を卒業。横山は成績優秀で、水雷学校は優等卒業であり[2]、懐中時計を授与された[1]。進級は速く4年目に下士官、7年目に一等兵曹に昇進している。日中戦争では南シナ海の警備行動に従事した。 日本海軍は特殊潜航艇︵以下﹁特潜﹂ ︶を艦隊決戦の秘密兵器として期待をかけており、その存在は秘匿され[3]、﹁特潜﹂搭乗員は厳選された人物たちであった[4]。横山はその選に入り訓練を受けていたが、洋上での艦隊決戦においても﹁特潜﹂の使用には困難な点があった[5]。1941年︵昭和16年︶10月13日、﹁特潜﹂の真珠湾攻撃参加が正式決定し[2]、さらに難しい条件が重なる特別攻撃隊員に選ばれる。最後の帰省[編集]
最後に帰省したのは1941年︵昭和16年︶9月である。この時、大量の松茸を土産に持ち込んで恩師や親戚に配り、恩賜の懐中時計を兄の時計と交換した。生家や家族を何度も振り返り、帰隊していった[1]。 墓所は鳥取県東伯郡琴浦町上法万の共同墓地より10メートルほど離れた桜の木の横にある。 墓石には﹁故 海軍特務少尉 横山薫範﹂とある。死後[編集]
横山は、遺書も遺言も何も残さなかった。最後までペン字の稽古をしていて、大学ノートには、一行の中に2行ずつ細かい文字がびっしりと書き込まれていたという[11]。 母親は、よく泣いていたが恨み言は言わなかったという[11]。出典・脚注[編集]
(一)^ abcd﹃九軍神は語らず﹄﹁軍神・横山薫範 - 黄ばんだノート﹂
(二)^ abcd﹃決戦特殊潜航艇﹄﹁第二章 真珠湾攻撃﹂
(三)^ ﹃日本の海軍﹄︵下︶﹁海と空3特殊潜航艇﹂
(四)^ ﹃本当の特殊潜航艇の戦い﹄﹁第二章 甲標的の誕生﹂
(五)^ ﹃本当の特殊潜航艇の戦い﹄﹁第一章 特殊潜航艇の実態﹂
(六)^ ﹃本当の特殊潜航艇の戦い﹄﹁第三章 甲標的作戦の実態﹂
(七)^ ﹃決戦特殊潜航艇﹄﹁まえがき﹂
(八)^ James P. Delgado; Terry Kerby (2016-11-7). The Lost Submarines of Pearl Harbor. Texas A & M Univ Press
(九)^ “KEEHI LAGOON MIDGET”. NOAA. 2021年12月30日閲覧。
(十)^ 葭英夫 著、渡部義之 編﹃甲標的と蛟竜﹄(株)学習研究社、2002年4月1日、153頁。
(11)^ ab牛島秀彦﹃九軍神は語らず﹄(株)光人社、1999年6月14日、223,222頁。