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歌川 芳宗︵うたがわ よしむね、文化14年︿1817年﹀ - 明治13年︿1880年﹀4月17日︶とは、江戸時代末期から明治時代にかけての浮世絵師。
歌川国芳の門人。本姓は鹿島、名は松五郎。歌川の画姓を称し一松斎と号す。江戸の大工職林忠蔵の子として生まれたが、自らは鹿島の姓を称した。江戸銀座二丁目いろは茶屋に住む。天保6年︵1835年︶、19歳の折国芳の門人となり、作画期は文久の頃で、武者絵や時局絵、役者絵、美人画などを描いた。彩色に優れ、師の多数の作品の色差しをする。国芳筆の絵馬﹁一ツ家図﹂︵浅草寺奉納︶の裏面には芳宗の名が記されている。
性格は飄軽なところがあり、師の怒りに触れて破門となること十数度であったといわれるが、その都度国芳の許に戻っており、師弟関係は芳宗の晩年まで継続した。晩年は娘のしま女が若菜屋島次という芸者として売り出したことから、芳宗は芸者置屋として新橋の金春街道に住み、左団扇で暮らせるようになったという。最期は誤って井戸に落ち死んだ。享年64。墓所は豊島区西巣鴨の良感寺、法名は雲上院興与芳宗居士。門人に宗政、宗久、宗成、宗兼、宗正がいる。家庭では11人の子に恵まれており、末子の周次郎は月岡芳年に入門し新井年雪と称している。
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