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二代目 歌川貞広︵にだいめ うたがわ さだひろ、天保9年︿1838年﹀ - 明治41年︿1908年﹀3月15日︶とは、江戸時代末期から明治時代にかけての大坂の浮世絵師、画家。
初代歌川広貞の門人。本姓は三谷、俗称は又三郎。昭皇亭と号す。初名を広兼と称した。三味線の名手鶴沢又吉の子で大坂島の内に生まれる。のち三津寺筋中橋に住む。はじめ円山派の藪長水に絵を学んだが、後に広貞の門人となる。作画期は元治元年︵1864年︶から没年にかけてで、役者絵や大坂の名所絵、芝居の看板絵を描く。明治14年︵1881年︶からは大阪朝日新聞の社員となり、新聞の挿絵を描いている。享年71。墓所は天王寺区の下寺町光明寺、法名は高誉貞広禅定門。息子の三谷晴彦は陸軍中尉となったが、日中戦争において戦死している。門人に湯川松堂がいる。
●﹁大星力弥・中村翫雀 大星由良ノ介・実川延三郎﹂ 中判錦絵2枚続 早稲田大学演劇博物館所蔵 ※元治元年9月、大坂中の芝居﹃仮名手本忠臣蔵﹄より
●﹁浦里・大谷友松 時次郎・中村宗十郎﹂ 中判錦絵2枚 ※慶応元年︵1865年︶3月、大坂筑後芝居﹃明烏名残諷﹄より
●﹁三七郎信高・実川額十郎﹂︵忠孝武勇伝︶ 中判錦絵 早稲田大学演劇博物館所蔵 ※慶応2年5月、中の芝居﹃傾城青陽鶏﹄より
●﹁娘お舟・市川右團次 渡し守頓兵衛・中村雀右衛門﹂ 中判錦絵2枚続 早稲田大学演劇博物館所蔵 ※明治元年︵1868年︶、﹃神霊矢口渡﹄
●﹁山崎大合戦図﹂ 大判錦絵3枚続 ※明治元年頃
●﹁伊左衛門・実川延三郎 喜左右衛門・三枡大五郎﹂ 中判錦絵 早稲田大学演劇博物館所蔵 ※明治5年9月、大坂角の芝居﹃廓文章﹄より
●﹁三番叟・中村福助﹂ 中判錦絵 ※明治9年9月、筑後芝居﹃寿式三番叟﹄より
●﹁浪花名所の内 難波橋の図﹂ 横長判錦絵 ※明治11年
参考文献[編集]
●湯川松堂 ﹁恩師三谷貞広﹂ ﹃郷土研究 上方﹄︵第11巻︶ 新和出版社、1969年 ※壱百参拾八号所収。復刻版、原著は昭和17年︵1942年︶6月刊行
●日本浮世絵協会編 ﹃原色浮世絵大百科事典﹄︵第2巻︶ 大修館書店、1982年
●国際浮世絵学会編 ﹃浮世絵大事典﹄ 東京堂出版、2008年