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池内 大学︵いけうち だいがく、1814年12月3日︵文化11年10月22日︶- 1863年3月11日︵文久3年1月22日︶︶は、幕末期の儒学者。また漢詩・書に長じた。
姓は源、名は奉時、字は士辰、陶所と号した[1]。大学は通称︵百官名︶。
人物・生涯[編集]
京都の商人の家に生まれた。兄弟は7人。8歳のとき貫名海屋に入門し古学・陽明学・朱子学を合わせた折衷学を学び、また龍野将監の下で医術を修める。学問に才覚を発揮し10歳のとき、山本沈三郎・百々一郎とともに三才子と称揚された。大学11歳のとき父が病没。父は﹁医者となって家を復興せよ﹂と遺言し、ますます勉学に励んだ。しかし、師海屋に﹁医は業拙なり。願わくば儒を業とせよ﹂と諭され母に相談すると許されたので龍野門をことわり、専ら海屋について学ぶことになった。
天保2年︵1831年︶、尊超入道親王に評判が聞こえ、中奥席として仕え、大学の名を賜った。翌年には近侍となり、公家子弟の教育係を務めた。天保4年︵1833年︶、尊超入道親王に随って江戸に向かう。3年後に水戸の徳川斉昭を訪ねた。親王の妹が斉昭の正室という関係であった。斉昭が親王に外国船の脅威を憂うと、親王は大学の見識が高いことを奨めた。大学が斉昭に海防の重要性を説くと気に入られ如射書院の額を下賜された。弘化4年︵1847年︶、再び水戸を訪ねると斉昭は攘夷の志を全うすることを告げ、三条実万に天皇に奏ずるように要請した。この頃、久邇宮朝彦親王の侍読となっている。
嘉永5年︵1852年︶7月、煎茶道を広めた文人画家山本梅逸の古稀を祝う煎茶会の図録、﹃茗讌品目﹄の引言を社友として書いている。[2]
嘉永6年︵1853年︶、ペリーが浦賀に来航し親書をもって開国を要請すると、大学は﹃攘夷論﹄を著し帝都防衛を論じた。この頃水戸藩士鵜飼吉左衛門は息子幸吉を大学に入門させている。以降、この幸吉は斉昭と大学の連絡係となる。大学はその後も攘夷派・一橋派として活動。梁川星巌・梅田雲浜・頼三樹三郎などとも交流する。
このため、井伊直弼から危険人物と見なされて安政の大獄の容疑者の一人と見なされたが、大学は機先を打って直弼に自首したため、中追放という軽い処分で釈放された。大学は中沢雪城の家に仮託し、その後大坂に出て松田正助︵書肆河内屋︶に身を寄せた。大学の家財は幕府に没収された。その蔵書は二千四百九十八巻︵如射書院蔵書目録︶あったという。
文久2年︵1862年︶12月、思召をもって中追放の刑が赦免される。翌年正月、土佐藩主山内容堂が京に上る途次、大坂に立ち寄り大学を召して時事談義に及んだ。深夜3時に篭で帰ると家の前で待ち伏せした刺客によって斬殺される。その首は難波橋に晒されたという。この刺客は過激な尊皇攘夷派で知られる﹁人斬り以蔵﹂こと岡田以蔵[3]で、大学が安政の大獄で処分されなかったのは直弼と裏で通じていたからだと誤解したものとされる。容堂は自藩の暴徒の犯行と察知し激怒した。
享年50。大福寺︵大阪市上本町四丁目︶に墓がある。孫に池内宏。
刊行物[編集]
●﹃雖在涙痕﹄安政3年
(一)^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、﹃コンサイス日本人名辞典 第5版﹄、株式会社三省堂、2009年 82頁。
(二)^ 許永晝・森田聖子・小林詔子・市川尚編﹃笑社論集﹄︵文人画研究会 2021年︶263~267頁参照。
(三)^ 以蔵は関与していないとする説もある。
参考文献[編集]
●広沢富次郎﹃鞅掌録﹄二巻二冊 文久2年・3年刊
●池内基﹃池内大学小伝﹄