池村平太郎
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池村 平太郎︵いけむら へいたろう、1887年︵明治20年︶12月16日[1] - 1954年︵昭和29年︶12月17日[1][2][3]︶は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員、旧制中学校長。
経歴[編集]
三重県安濃郡野田村︵神戸村を経て現津市野田[1]︶で、池村浅次郎の長男として生まれる[4]。1908年︵明治41年︶3月、三重県師範学校を卒業[1][2][3]。小学校訓導を務め[2]、1909年︵明治42年︶12月、文部省教員検定試験で博物科に合格した[1][4]。 1912年︵明治45年︶3月、三重県の伊賀実科高等女学校[注 1]教諭に就任[1][3]。以後、福岡県立柳河高等女学校[注 2]教諭、福岡県立若松中学校[注 3]教諭、福岡県師範学校教諭、和歌山県立海南中学校[注 4]教諭を歴任[1][2][3]。 1925年︵大正14年︶3月、和歌山県立日高高等女学校[注 5]長に就任した[1][2]。以後、和歌山県立の新宮高等女学校[注 6]長、粉河中学校[注 7]長を経て、1933年︵昭和8年︶8月、和歌山県立伊都中学校[注 8]長となった[1][2][3]。和歌山県史蹟名勝天然記念物調査委員、同県思想指導委員会伊都支部長も務めた[2]。教育功労者として、1940年︵昭和15年︶10月[3]には文部大臣から、1942年︵昭和17年︶2月には和歌山県教育会長からそれぞれ表彰された[1]。 1946年︵昭和21年︶2月に伊都中学校長を退職し[1][3]、同年4月、第22回衆議院議員総選挙に和歌山県選挙区から出馬して当選し[1][2][3]、第23回総選挙には出馬せず[1]衆議院議員を1期務めた[2][3]。この間、民主党に所属した[2]。 1953年︵昭和28年︶1月、和歌山県より﹃和歌山県移民史﹄の編纂を委嘱され、知事公室企画広報課勤務として編纂作業に従事し、九割ほどまで進捗していた1954年12月に伊都郡応其村大字伏原︵現橋本市︶の自宅で心臓麻痺のため死去した[1][3]。著作[編集]
- 『文化の祟り : 現代人に捧ぐ』南郊社、1932年。
- 『国民体位向上への新提言』隆文堂、1937年。
- 『和歌山県移民史』和歌山県、1957年。
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ のちの三重県立阿山高等女学校。現三重県立上野高等学校。
(二)^ 現福岡県立伝習館高等学校
(三)^ 現福岡県立若松高等学校
(四)^ 現和歌山県立海南高等学校
(五)^ 現和歌山県立日高高等学校・附属中学校
(六)^ 現和歌山県立新宮高等学校
(七)^ 現和歌山県立粉河高等学校
(八)^ のちの和歌山県立伊都高等学校。2017年閉校。