洗心洞
洗心洞︵せんしんどう︶は、幕末(江戸時代末期)に、現在の大阪府、大阪市にかつて存在した大塩平八郎の私塾である。
大阪東町奉行で大塩を吟味役に取り立ててくれた高井実徳が、高齢を理由に奉行職を引退した後、大塩は与力を辞職し、与力時代から開いていた、洗心洞で﹃洗せん心しん洞どう箚さっ記き﹄を表すなど、教学に努めた[1]。洗心洞の洗心とは﹃易﹄繋けい辞じ上伝の﹁聖人此これを以もって心を洗ひ、密に退蔵す﹂に由来する。その学則である﹁入学盟誓書﹂や教学の綱領である﹁学堂西掲﹂﹁学堂東掲﹂などが作成されたのが1825年︵文政8年︶であるため、このころ私塾としての体裁を整えたものと思われる。塾生17~18名、門弟40~50名程で、その出身は大坂町奉行の役人や周辺農村の豪農層が多かった。[1]大塩は幕吏に与えられる敷地五百坪に及ぶ屋敷に住み、洗心洞はその一角に作られていた。森田康夫著の﹃大塩平八郎の時代 洗心洞門人の軌跡﹄(校倉書房 1993年)によると
大塩邸は、玄関を上がって右側に塾があり、左の方に読礼堂といわれた講堂があった。そして、その奥が中斎と呼ばれた大塩の書斎があった。講堂の西側には、﹃学堂西掲﹄として王陽明が竜場に追放されたときに、その地の書生に示した立志・勤学・改過、積善の額が掲げられ、東側には﹃学堂東掲﹄として、大塩が独学で学んでいた陽明学に、開眼するきっかけとなった、呂新吾の格言十七ヶ条の額が掲げられていた。
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