津軽漆器
(津軽塗から転送)
津軽漆器︵つがるしっき︶は、津軽地方で生産される伝統的漆器[1]。1873年︵明治6年︶以降、津軽塗︵つがるぬり︶と呼称される[1]。唐塗︵からぬり︶とも称される[2]。1975年、経済産業大臣指定伝統的工芸品に選ばれ、2017年には国の重要無形文化財に指定された。
歴史[編集]
江戸時代中期、弘前藩第四代藩主津軽信政が津軽の産業を育成するため、全国から多くの職人・技術者を弘前に招き、若狭国出身の塗師池田源兵衛を召し抱えたのが始まりとされる[1]。1676年 ︵延宝4年︶頃には、既に弘前城内の一角に塗師の作業場があった[1]。弘前藩庁日記、または御国日記[3]の正徳5年︵1715年︶1月7日には﹁唐塗り﹂が、翌年7月12日には﹁霜降塗﹂・﹁利久唐塗﹂・﹁松葉いろいろ﹂・﹁唐塗﹂・﹁色紙塗﹂・﹁紋虫喰塗﹂の名前が挙げられており、独自の塗り方が多く考え出されたことがうかがえる。 弘前藩で発達した漆器は様々な調度品に用いられたが、1871年︵明治4年︶の廃藩置県以後は、津軽塗への藩による保護政策が失われ、津軽漆器は一時衰退する[1]。だが、藩に代わって県が助成を始めたこと、士族や商人による漆器の製造所や組合組織が結成されたことで、津軽の漆器産業は息を吹き返し、1873年︵明治6年︶に開催されたウィーン万国博覧会には、青森県が﹁津軽塗﹂の名前で漆器を出展して賞を受けている[1]。これ以降﹁津軽塗﹂という名前が一般的となる[1]。その後、大正時代まで津軽塗産業は大衆化を推し進めるが、1929年︵昭和4年︶の世界恐慌や第二次大戦中の経済統制によって、大きな打撃を受ける[1]。 1975年︵昭和50年︶経済産業大臣指定伝統工芸品に選定される[1]。 2017年、重要無形文化財に指定される[4]。特徴[編集]
津軽塗の土台となる木地には青森県特産のヒバが使用される[2]。研磨と塗りを繰り返して下地がしっかりしたところで、津軽塗独特の﹁シカケ﹂と﹁サイシキ﹂が施され仕上げられる[2]。四十数回の工程と2カ月余の日数を費やして作られる馬鹿丁寧さのため、﹁津軽の馬鹿塗り﹂との異名を持つ[2]。 唐塗・七々子塗・錦塗・紋紗塗の4種類の技法を基本として[5]、仕掛け漆︵絞漆︶や種漆を用いる各種の研出変り塗が特徴である[4]。また、複数の技法を併用したり文様を描き加えたりすることによって、華やかな色彩や質感を活かした無数の表現が可能となる[4]。脚注[編集]
(一)^ abcdefghi“津軽塗について|津軽塗|青森県漆器協同組合連合会”. www.tsugarunuri.org. 2020年11月2日閲覧。 (二)^ abcd“伝統工芸の詳細 - 弘前市”. www.city.hirosaki.aomori.jp. 2020年11月2日閲覧。 (三)^ おくににっき、弘前藩の官職が書いた日誌。御国日記は他藩にも存在した (四)^ abc“祝 本県初・重要無形文化財﹁津軽塗﹂ - 青森県庁ホームページ”. www.pref.aomori.lg.jp. 2020年11月2日閲覧。 (五)^ “津軽塗の塗模様|津軽塗|青森県漆器協同組合連合会”. www.tsugarunuri.org. 2020年11月2日閲覧。参考文献[編集]
- 長谷川成一著、「弘前藩」、吉川弘文館、2004年、ISBN 4-642-06662-4
- 中嶋繁雄著、「大名の日本地図」2003年、文藝春秋