淑慎皇貴妃
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淑慎皇貴妃︵しゅくしんこうきひ、咸豊9年12月1日︵1859年12月24日︶ - 光緒30年2月28日︵1904年4月13日︶︶は、清の同治帝の側妃。満洲鑲黄旗の出身。姓はフチャ︵富察︶氏︵Fuca hala︶。員外郎の鳳秀︵フンシウ、fungsio︶の娘で、孝賢純皇后の伯父の馬斉の七世の孫娘にあたる。
生涯[編集]
同治11年︵1872年︶、3年ごとに紫禁城で行われる后妃選定面接試験﹁選秀女﹂を受けて合格した。当時は満12歳の少女であった。対照的に、アルテ氏︵孝哲毅皇后︶はすでに18歳で、史書や詩詞を読み、文章をものした。西太后はフチャ氏を皇后に強く推したが、東太后に拒否され、結局アルテ氏が皇后に立てられた。フチャ氏は﹁慧妃﹂︵ulhisungge fei︶となった。 慧妃は寵愛を受けなかったので、西太后は皇后に憎しみを向け、同治帝としばしば諍いを起こした。同治14年12月5日︵1875年1月12日︶、同治帝は19歳で早世した。光緒元年︵1875年︶、孝哲毅皇后も失意のうちに崩じた。 光緒帝の即位後、西太后により慧妃は敦宜皇貴妃︵jiramin acabungga hūwang guifei︶に尊封された。光緒20年︵1894年︶、西太后の大寿︵60歳︶の祭典で敦宜栄慶皇貴妃︵jiramin acabungga derengge urgun hūwang guifei︶に尊封された。 光緒30年︵1904年︶2月28日に紫禁城内で薨去した。﹁淑慎﹂と諡され、恵陵の妃園寝の正面真ん中に、最高身位の妃として埋葬された。伝記資料[編集]
- 『清史稿』
- 同治11年慧妃冊文