東太后
孝貞顕皇后 | |
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清朝皇后 | |
『孝貞顕皇后坐像』 | |
在位 |
咸豊2年6月8日 - 咸豊11年10月9日 (1852年7月24日 - 1861年11月11日) |
別称 |
東太后 慈安皇太后 (jilan elhe hūwang taiheo)[1] 孝貞慈安裕慶和敬誠靖儀天祚聖顕皇后 |
出生 |
道光17年7月12日 (1837年8月12日) |
死去 |
光緒7年3月10日 (1881年4月8日) 順天府、紫禁城鐘粋宮 |
埋葬 | 定東陵 |
配偶者 | 咸豊帝 |
氏族 | ニオフル(鈕祜禄)氏 |
父親 | ムヤンガ(穆揚阿) |
母親 | ギャンギャ(姜佳)氏 |
東太后︵とうたいこう・とうたいごう、道光17年7月12日︵1837年8月12日︶ - 光緒7年3月10日︵1881年4月8日︶︶は、清の咸豊帝︵文宗︶の皇后。満洲鑲黄旗の出身。姓はニオフル︵鈕祜禄︶氏︵Niohuru hala︶だが名は記録に残されていない。広西右江道道員・三等承恩公ムヤンガ︵Muyangga、穆揚阿︶の娘。母は妾のギャンギャ︵姜佳︶氏。夫の死後、﹁母后皇太后﹂とされ、紫禁城の東部に位置する鍾粋宮に居住したため東太后と通称された。正式な諡は孝貞顕皇后 ︵満州語‥ᡥᡞᠶᠣᠣᡧᡠᠩᡤᠠ
ᠵᡝᡴᡩᡠᠨ
ᡞᠯᡝᡨᡠ
ᡥᡡᠸᠠᠩᡥᡝᠣ 転写‥hiyoošungga jekdun iletu hūwangheo︶であるが、生前に奉られた尊号の慈安皇太后︵jilan elhe hūwang taiheo︶で呼ばれることが多い。徽号と合わせた諡号は孝貞慈安裕慶和敬誠靖儀天祚聖顕皇后。
慈竹延清図に描かれた東太后
咸豊帝の嫡妻である孝徳顕皇后が咸豊帝の即位前に亡くなったため、継妻︵皇后︶に内定したが、咸豊2年︵1852年︶2月、後宮に入りまず妃嬪の第4位である貞嬪となり、間を置かずして貞妃に封ぜられる。同年5月貴妃に進み、6月皇后に立つ。時に16歳。このことには皇帝の養母の孝静成皇后の意向が働いていたようである。
彼女は皇子女を生まず、結局懿貴妃所生の載淳が儲君となり、咸豊10年︵1861年︶8月に咸豊帝が熱河にて病死すると同治帝として即位した。同年11月には祺祥政変︵辛酉政変︶が起き、西太后の称を得た懿貴妃が恭親王奕訢と手を結んで、先帝の遺した8人の顧命王大臣を追い落として政権を握った。そこで新たに幼帝を輔佐するべく、嫡母東太后と生母西太后が垂簾聴政を敷き、叔父の恭親王奕訢が議政王となった。同治12年︵1873年︶、同治帝の大婚を機に帰政する。
東太后は温和誠実な人柄で、いつも夫・子を立てて、実際に政治に容喙することは少なかった。東太后に養育された同治帝も、生母よりも嫡母との間がはるかに近かったという。しかし、そんな東太后も時には果断な一面を見せることがあり、その一例が、宦官の安徳海を処刑した件である。安徳海は、おしゃべりの相手として西太后に気に入られていたのを良いことに傍若無人な振る舞いをしていたため、心ある人々に憎まれていた。同治8年︵1869年︶に、安徳海は西太后の命令で、やがて来たる同治帝の婚儀の衣装を買いそろえるために、山東地方へ下った。清朝には、﹁宦官は勝手に皇城を出てはならぬ﹂という法度があったが、思い上がった安徳海は正式な手続きを経ていなかった。彼を憎む人々は、この機会を見逃さなかった。時の山東巡撫丁宝楨の奏聞を納れた東太后は、ただちに丁宝楨に命じ、その地で安徳海を処刑させた。このことは、東太后が決して西太后の言いなりではなかったことを示すエピソードとして知られる。
同治帝の早世後、西太后は自分の妹が生んだ醇親王奕譞の子を迎えて光緒帝とし、東太后も西太后と並んで再び執政の座に就いた。が、政治の実権は権謀術数に長ける西太后が握ったままだった。東太后は光緒7年︵1881年︶3月10日の夜に宮廷の会議中に倒れ、45歳で死去。それまで明らかな病状が無く、病案(カルテ)も当初は非公開とされた急死だったため、早くから西太后による毒殺と囁かれ、政府高官にも公然と暗殺を口にする者も居たが、暗殺説を裏付ける証拠は確認されていない。最終的に病案では脳出血と発表された。東太后が過去に2度発作を起こし、会話に障害があったという翁同龢の日記の記述もこれを裏付ける。同年9月、遵化直隷州内にある清東陵普祥峪の定東陵に埋葬された。