和泉邦彦
和泉 邦彦︵いずみ くにひこ、1849年3月12日︵嘉永2年2月18日[1][2]︶- 1913年︵大正2年︶6月6日[3][4]︶は、明治期の日本の政治家。衆議院議員。旧姓・児島。
経歴[編集]
薩摩国伊佐郡宮之城郷屋地村[5]︵鹿児島県[3]伊佐郡宮之城郷屋地村、南伊佐郡宮之城郷屋地村、宮之城村、宮之城町[4][6]を経て現さつま町︶で薩摩藩士・児島七郎右衛門の長男として生まれ[2]、1868年︵明治元年︶和泉少左衛門の養子となり家督を相続した[2]。藩校造士館で学んだ[3]。 明治維新後、東京愛宕下警察区長に就任[3][4][6]。台湾出兵に参加[3]。明治六年政変で下野した西郷隆盛に従い帰郷[6]。西南戦争に参加し[5][6]、戦後、東京の市谷監獄に入獄[6]。出獄後、郷友会・三州会の設立に参画[6]。1882年︵明治15年︶10月、﹃麑城新報﹄を創刊した[6]。九州改進党鹿児島部が設立すると常務委員に就任[6]。1883年︵明治16年︶7月、鹿児島県会議員に選出された[5][6]。自由民権運動で中江兆民らと交流し東洋学館の設立に参画した[6]。 1898年︵明治31年︶8月、第6回衆議院議員総選挙︵鹿児島県第4区︶で初当選し[7]、その後、第8回総選挙まで再選され[8]、最後は無所属となり衆議院議員に連続3期在任した[3][4][5]。 その後上京し[6]、駒場農林学校︵東京農林学校︶舎監を務め[3][4]、加治木常樹著﹃薩南血涙史﹄を出版した[5][6]。国政選挙歴[編集]
- 第6回衆議院議員総選挙(鹿児島県第4区、1898年8月、無所属)当選[2][7]
- 第7回衆議院議員総選挙(鹿児島県郡部、1902年8月、無所属)当選[2][8]
- 第8回衆議院議員総選挙(鹿児島県郡部、1903年3月、政友倶楽部)当選[8]