犬死にせしもの
﹃犬死にせしもの﹄︵いぬじにせしもの︶は、西村望が1982年に発表した小説。発表当初のタイトルは﹃犬死にせしものの墓碑銘﹄だったが、文庫化の際に改題された。
1986年に映画化された。
映画[編集]
1986年4月19日公開。製作大映=ディレクターズ・カンパニー[1]、配給は松竹[2]。今井美樹は映画初出演で[1]、唯一のヌードを披露している[3]。同時上映は﹃ジャズ大名﹄。キャスト[編集]
●重左‥真田広之 ●鬼庄‥佐藤浩市 ●洋子‥安田成美 ●岩テコ‥平田満 ●伝次郎‥堀弘一 ●千佳‥今井美樹 ●たえ‥吉行和子 ●火つけ柴‥蟹江敬三 ●猪狩‥木之元亮 ●重左の母‥中村玉緒 ●阿波政‥西村晃スタッフ[編集]
●監督‥井筒和幸 ●原作‥西村望﹁犬死にせしものの墓碑名﹂ ●脚本‥井筒和幸、西岡琢也 ●撮影‥藤井秀男 ●美術‥下石坂成典 ●編集‥谷口登司夫 ●録音‥神戸孝憲 ●音楽‥武川雅寛 ●音楽プロデューサー‥三浦光紀 ●主題歌‥桑名晴子&加川良﹁愛の輝き﹂ ●助監督‥大谷康之 ●製作者‥山本洋、溝口勝美、宮坂進 ●プロデューサー‥山本勉 ●企画‥細越省吾 ●製作協力‥大映映像、大映京都撮影所、徳間書店、徳間ジャパン ●製作‥大映、ディレクターズ・カンパニー製作[編集]
﹃映画情報﹄1983年12月号に﹁井筒和幸プロデューサー、大森一樹監督で、桑田佳祐のアミューズと大映が提携する﹃犬死にせしものの墓碑銘﹄は、海洋もので、瀬戸内海ロケが夏でなければできないから、かなり大幅に延期。大森監督は﹃井筒さんが自分で監督をやるべきだ﹄と言っていた﹂という記事が見られることから小説が発表されてすぐに映画化は決まったと見られる[4]。撮影[編集]
1985年8月にクランクインしたが[1]、その後撮影が延びに延び[1]、翌1986年正月明けから撮影を再開[1]。1986年1月か、2月クランクアップ[1]。 広島県福山市近辺での瀬戸内海のロケは約半年あり[1]、1985年の10月の撮影では[5][6]、平田満が一日中海に浸かり、真田広之や佐藤浩市に殴られ続け、水の冷たさもあり体調を悪くした[5]。興行成績・エピソード[編集]
大映時代に製作に関わった桝井省志は﹁︵製作当時︶大映は、徳間新大映として映画製作を本格的に始めた頃で、当時上司であり、私たち若手プロデューサーの人材育成に力を注いでいた山本洋企画室長の基で、若手監督との映画製作に意欲的に取り組んでいました。私たちとしては、この作品は、真田広之、佐藤浩市 、安田成美、今井美樹と当時としてはベストのキャスティングで臨んだ自信作でしたが、岡本喜八監督の傑作﹃ジャズ大名﹄との二本立てで、松竹配給で公開されたところ、興行は大惨敗で、この作品で初めて映画を作ることの楽しさを知ると同時に、観客に見せることの難しさを痛いほど思い知らされました。しかし、井筒監督、脚本家・西岡琢也氏、佐藤浩市君、山本勉プロデューサー︵当時ディレクターズ・カンパニー︶、細越省吾︵当時ニュー・センチュリー・プロデューサーズ︶等、大切な先輩・友人と出会う貴重な機会でもありました。大映京都撮影所にとって結果的に自社最後の作品となり、私個人のみならず、大映の記念碑的な作品となりました。映画デビューの今井美樹ちゃんは撮影のない日でも必ず現場に現れ、製作部の手伝いをする彼女の姿は、スタッフの目に生き生きと清々しく映っていました。時間が空くと必ずウォークマンを耳にしていた彼女に、﹃レコードでも出せるといいね!﹄などと冗談半分に言ったものです。私にとっても、瀬戸内海の海辺の半年の喧騒は忘れ難いものです﹂などと述べている[1]。脚注[編集]
(一)^ abcdefgh﹁アルバムは語る 今井美樹の映画デビュー作 アルタミラピクチャーズ社長 桝井省志﹂﹃AVジャーナル﹄1999年7月号、文化通信社、93頁。
(二)^ ︻作品データベース︼犬死にせしもの - 松竹
(三)^ 女優が封印した﹁生涯ただ1度の濡れ場﹂を厳選発掘︵4︶意外なお宝編・あの今井美樹も…
(四)^ ﹁雑談えいが情報 新作映画ニュース﹂﹃映画情報﹄1983年12月号、国際情報社、75頁。
(五)^ ab﹁TALK special
ヒューマン INTERVIEW 平田満 ﹃オレの人生、メリハリないんです。きっと老後はつらいんでしょうね﹄﹂﹃週刊平凡﹄1986年2月14日号、平凡出版、66-68頁。
(六)^ ﹁堺正章の人間探検 連載対談 HumanApproach第48回ゲスト―真田広之 ﹃30過ぎたら女に狂うって﹄﹂﹃週刊平凡﹄1986年4月11日号、平凡出版、118-121頁。