田中吉信
田中 吉信 | |
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 天正15年(1587年) |
死没 |
慶長11年1月20日(1606年2月26日) または慶長15年6月29日(1610年8月17日) |
別名 | 則政 |
戒名 | 陽壽院殿龍岳道雲大居士 |
墓所 | 柳川市宋安寺、のちに久留米市北野町西方寺に移し、墓石は2か所とされていたが、善導寺でも墓碑が確認された。 |
官位 | 主膳正 |
藩 | 筑後国 |
氏族 | 田中氏 |
父母 | 父:田中吉政 |
兄弟 | 吉次、康政、忠政、吉信、女(中原師廉室) |
田中 吉信︵たなか よしのぶ︶は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。柳河藩︵筑後国︶初代国主・田中吉政の二男[1]。
生涯[編集]
天正15年︵1587年︶、田中吉政の二男として誕生したといわれる。 慶長6年︵1601年︶、父・吉政が筑後国主となると、支城である久留米3万石の筑後久留米城主となった。慶長8年︵1603年︶、柳川から久留米に至る道路の整備をはじめ、城下町の形成も行った。 慶長11年︵1606年︶1月20日、小姓を手討ちにしようとして、逆に斬られて死去した。家人を手打ちにするという嗜好があったとされ、吉信が返り討ちに遭う前にすでに53人が犠牲になっていたとされる[2]。同様の記述は﹃当代記﹄で確認できる。﹃筑後志﹄によれば、家臣を手打ちにする際に誤って自分の膝を傷つけ、その傷が癒えないまま近侍の者と相撲をとったため、破傷風になって満19歳で死亡したという[3]。死亡した年も年齢も異なっており、どちらが正確かははっきりしない。 吉信の乳母が彼を弔うため、現在の柳川市にあった宋安寺に堂を立て、乳母が亡くなった後、この堂が妙経寺となる。田中家の改易後、旧領は柳河藩と久留米藩とに分かれたので、北野町の西方寺に移し墓を建てたとされる。近年、浄土宗大本山善導寺︵久留米市善導寺町飯田550︶でも墓碑が確認された。参考文献[編集]
- 篠原正一『久留米人物誌』(久留米人物誌刊行委員会、1981年)