田代三喜
田代 三喜︵たしろ さんき、寛正6年4月8日︵1465年5月3日[1]︶ - 天文13年4月15日︵1544年5月6日︶︶は、室町・戦国時代の日本の医師。後世派医学の開祖であり、広く医聖と称された。
曲直瀬道三・永田徳本などと並んで日本における中医学の中興の祖である[3]。三喜は通称で、諱は導道、字︵あざな︶を祖範といった。範翁、廻翁、支山人、意足軒、日玄、善道の多くの号がある。
略歴[編集]
田代三喜の略伝については、明治22年︵1889年︶に服部甫菴がまとめた﹃三喜備考﹄による説が広く流布している。 三喜は源平時代の武将である田代信綱の8世の孫・田代兼綱の子として、武蔵国川越の西方、越生で生まれる[4]。田代氏は伊豆国の豪族であったが、兼綱の代に武蔵国に移住していたという。文明11年︵1479年︶鎌倉の妙心寺で僧になる[4]。長享元年︵1487年︶から明応7年︵1498年︶、明に渡る。当時大陸では金・元代に李東垣、朱丹渓の流れを汲む当流医学が盛隆を極めており、三喜は僧医月湖に師事しこれらの医学を学んだ。 なお宮本義己は実際の遣明船の派遣年度を精査し、永正3年︵1506年︶に堺から渡明し、大永4年︵1524年︶に帰国したとしている[5]。 帰国してしばらくは下野国足利に住し、永正6年︵1509年︶関東管領︵古河公方︶足利成氏に招聘されて下総国古河に移る。ここで三喜は成氏の主侍医となり、僧籍を離れ妻を迎える。また同年には猪苗代兼載を治療した事が知られる。 大永4年︵1524年︶武蔵国に帰る。関東一円を往来して医療を行い多くの庶民を病苦から救って、医聖と仰がれた。﹁足利の三帰﹂﹁古河の三喜﹂という異称を得ている。 享禄4年︵1531年︶、当時足利学校に在籍していた曲直瀬道三と佐野市赤見で出会う。三喜は道三をよき後継者とみなして医術を指導した。[6][7] 三喜は死期近い病床でなお口述を続け、79歳で没す。古河市の永仙院跡には昭和初期に植えられた三喜松と﹁医聖田代三喜翁供養碑﹂と刻んだ石碑が建っている[4]。著書[編集]
- 『三帰廻翁医書』
- 『三喜直指篇』
- 『三喜流秘伝書』
脚注[編集]
(一)^ ﹁永仙院過去帳﹂による。﹁道三家譜﹂によると、天文6年2月19日︵1537年4月9日︶に73歳で没したとある。﹂
(二)^ 宮本義己 著﹁曲直瀬道三の﹁当流医学﹂相伝﹂、二木謙一 編﹃戦国織豊期の社会と儀礼﹄吉川弘文館、2006年。
(三)^ 三喜が日本に持ち帰った李朱医学とは便宜的造語で、﹁当流医学﹂が実情に則した実際の学派名である[2]。この当流医学は弟子の道三によって広められていく。
(四)^ abc﹃古河市史 通史編﹄、1988年、201頁。
(五)^ abcd宮本義己﹁﹁当流医学﹂源流考-導道・三喜・三帰論の再検討-﹂﹃史潮﹄59号、2006年。
(六)^ ﹃三喜備考﹄によると以上の通りであるが、史料上に現れる三喜の実像は多少異なる。永正6年に兼載を治療した人物は正しくは﹁江春庵﹂とあるが、この﹁江春庵﹂は三喜とは別人である。三喜を江春庵と見なせる史料も存在するが、これは﹁江春庵︵場所︶にいる三喜﹂と解釈すべきとされる[5]。
(七)^ 当流医学を広く始めた名医・曲直瀬道三の師として知られるが、道三の師医とされる人物には二つの名前が登場する。すなわち当流医術の相伝書に署名のある﹁範翁導道﹂と、﹃多聞院日記﹄や道三に手によるとされる[5]﹁江春之系図﹂にある﹁田代三喜﹂である。この二人については、寛文3年︵1663年︶に黒川道祐が﹁本朝医考﹂で同一人物としている。一方でほぼ同時代の寛文12年︵1672年︶に記された﹁涙墨紙﹂の序文では、三喜は導道の高弟であり、共に渡明したとしている。また内閣文庫本﹁診脈口伝集﹂や﹁今大路家記鈔﹂でも別人としている。﹃三喜備考﹄以降は服部甫菴の説が支配的になり、三喜と導道は同一人物とみなされている。三喜の伝を再考した宮本義己も三喜と導道は同一人物との見解を示している[5]。いずれにしても﹁三喜﹂と﹁導道﹂を明らかに同一人物とした一次史料は存在していない。