田原陶兵衛
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田原 陶兵衛︵十二代︶︵たはら とうべえ︵じゅうにだい︶、1925年︵大正14年︶6月19日 - 1991年︵平成3年︶9月27日︶は、日本の陶芸家。萩焼の第一人者。
略歴[編集]
1925年6月19日、山口県長門市に生まれる[1]。1944年、旧制山口高等学校在学中に召集を受けて満州に渡る[1]。1945年、シベリアに抑留され、1948年に復員[1]。復員後は長兄の11代田原陶兵衛に師事[1]。1956年、長兄の急逝により12代陶兵衛を襲名する[1]。 1969年、第16回日本伝統工芸展に﹁萩茶碗﹂を初出品。翌年、日本工芸会正会員となり、1981年から1988年まで同会理事を務める[1]。1981年、山口県指定無形文化財萩焼保持者に認定される[1]。1985年、中国文化賞受賞[1]。 陶器の器としての機能と、鑑賞対象としての美的価値の両立を目指し、茶道具を中心に制作した[1]。作風としては、古味を帯びた形状や﹁陶兵衛粉引き﹂と呼ばれる化粧掛けが特徴である[1]。江戸期の釉薬を再現すべく研究を続けていた[1]。系譜[編集]
田原家は赤川助左衛門の系統を引く深川御用窯︵深川萩︶の陶芸一族としての名跡。1866年︵慶応2年︶8代赤川喜代蔵の時に嫡男謙治が赤川性から田原姓に改姓。十二代田原陶兵衛は独自の高麗朝鮮陶器の研究、茶道への造詣を深め茶陶中心に発表した。田原陶兵衛は田原家当主が代々襲名し現在に至る。現在﹃田原陶兵衛﹄の名跡は13代である。
系譜
●初代 赤川助左衛門
●2代 赤川三左衛門
●3代 赤川忠兵衛
●4代 赤川佐々エ門︵佐兵衛、左々ヱ門︶
●5代 赤川忠兵衛︵喜右衛門︶
●6代 赤川喜右衛門
●7代 赤川忠兵衛
●8代 赤川喜代蔵(光高︶置物細工に秀ず青年時代より蘭学に志し医薬にもくわしく、木戸孝允等幕末藩士と親交あり。
●9代 田原陶兵衛(謙治) - 1934年 (昭和9年没) 幕末、喜代蔵の嫡男謙治が田原姓を名乗り田原陶兵衛を称する。
●10代 田原高麗陶兵衛(守雄) 1880年︵明治13年︶- 1939年︵昭和14年︶
●11代 田原高麗陶兵衛(忠太郎) 1956年︵昭和31年没) 十代陶兵衛の長男。1943年︵昭和18年︶技術保存窯指定。
●12代 田原陶兵衛 1925年︵大正14年︶- 1991年︵平成3年︶。十代の二男。1956年(昭和31年)12代田原陶兵衛を襲名。
●13代 田原陶兵衛 1951年︵昭和26年︶- 現在当主。十二代の長男。中里重利に師事。1992年に父の死去により十三代を襲名。