原文

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原文の引用[編集]


 "sic" (en, wikt)  "thuus" "so" [sic] 

 "sic" 

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用例[編集]

  • 原文(抜粋)
≪…前後文省略…≫ 先主曰 善 於是與亮情好日密 關羽張飛等不悅 先主解之曰 孤之有孔明 猶魚之有水也 願諸君勿復言 羽飛乃止
≪…前後文省略…≫ 先主曰:「善!」於是與亮情好日密。關羽、張飛等不悅,先主解之曰:「孤之有孔明,猶魚之有水也。願諸君勿復言。」羽、飛乃止。[4]
  • 約物つきの原文(抜粋):日本語表記の一例
≪…前後文省略…≫ 先主曰、善。於是與亮情好日密。關羽張飛等不悅。先主解之曰、孤之有孔明、猶魚之有水也。願諸君勿復言。羽飛乃止。
  • 書き下し文(一例)
先主曰く、善し、と。是に於いて亮と情好日に密なり。関羽張飛等悦ばず。先主これを解きて曰く、孤の孔明有るは、なお魚の水有るが如きなり。願わくば諸君復た言ふ勿れ、と。羽飛乃ち止む。
  • 書き下し文(一例)
先主曰く、善し、と。ここに於いて亮と情好日に密なり。関羽張飛等よろこばず。先主これを解きて曰く、の孔明有るは、なおうおの水有るが如きなり。願わくば諸君た言うなかれ、と。羽飛すなわむ。
  • 口語訳文
劉備[5]は「善し」と言った[6]。こうして先主と亮(諸葛亮、孔明)の仲は日ごと密になっていった。関羽張飛等はそれを快く思わなかった。先主は彼等を説得し、「私にとって孔明がいるのは、言うなればちょうど、魚に水があるようなものである。どうか諸君には二度と言ってくれないよう願う」と言った。関羽・張飛はただちに止めた。
                              ───陳寿, 『三国志巻35蜀書 諸葛亮伝

  • 原文(抜粋)
貞觀十一年五月 ≪…省略…≫ 廿六日癸未 陸奧國地大震動 流光如晝隱映 頃之 人民叫呼 伏不能起 或屋仆壓死 或地裂埋殪 馬牛駭奔 或相昇踏 城(郭[7])倉庫 門櫓墻壁 頽落顛覆 不知其數 海口哮吼 聲似雷霆 驚濤涌潮 泝洄漲長 忽至城下 去海數十百里 浩々不辨其涯諸 原野道路 惣爲滄溟 乘船不遑 登山難及 溺死者千許 資産苗稼 殆無孑遺焉
  • 約物つきの原文(抜粋):日本語表記
(貞觀十一年五月) ≪…省略…≫ 廿六日癸未。陸奧國地大震動。流光如晝隱映。頃之。人民叫呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。城(郭)倉庫。門櫓墻壁。頽落顛覆。不知其數。海口哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。泝洄漲長。忽至城下。去海數十百里。浩々不辨其涯諸。原野道路。惣爲滄溟。乘船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。
  • 書き下し文(一例)
貞観十一年五月 ≪…省略…≫ 廿六日にじゅうろくにち癸未きび陸奥国みちのくのくに大いにふるへ、流光りゅうこう昼の如く陰映いんえいす。頃之しばらくのあいだに、人民たみ叫呼さけび、伏してつことあたわず。あるいはいえたおれてされ死に、或いは地裂けてうづもにき。馬牛はおどろはしりて、或いは相昇あいのぼりて踏む。城郭・倉庫・門・やぐら墻壁しょうへきくずれ落ち、顛覆くつがえること、の数を知らず。海口みなと哮吼え、声雷霆いかづちに似たり。驚濤さかまくなみ涌潮うしおわきあがり、泝洄くるめ漲長みなぎりて、たちまち城下に至り、海を去ること数十百里、浩々こうこうとして涯諸はてわきまえず、原野はら道路みちすべ滄溟うみり、船に乗るにいとまあらず。山に登るも及びがたくして、溺れ死ぬる者千ばかり。資産たから苗稼なえほとほひとつのこるもの無かりき。
  • 書き下し文(一例)
貞観十一年五月 ≪…省略…≫ 廿六日にじゅうろくにち癸未きび陸奥国むつのくにの地、大震動す。流光りゅうこう昼の如く陰映いんえいす。頃之このころ人民たみ叫呼きょうこし、伏してつことあたわず。あるおくたおれて圧死に、或は地裂け埋殪うめたおし、馬牛おどろはしり、或は相昇あいのぼり踏む。城郭・倉庫・門・やぐら墻壁しょうへきくずれ落ち顛覆てんぷくす。の数を知らず。海口みなと哮吼ほうこうし、声、雷霆らいていに似たり。驚濤きょうとう涌潮ようちょう泝洄そかい漲長ちょうちょうし、たちまち城下に至る。海を去ること数十百里。浩々こうこうとして涯諸がいしょを弁ぜず。原野道路、そうじて滄溟そうめいる。船に乗るにいとまあらず。山に登るも及びがたし。溺死せる者千ばかり。資産苗稼びょうかほとん孑遺げつい無し。[8]
  • 口語訳文
貞観11年5月26日癸未の日、陸奥国大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立つことができなかった。ある者は家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合い、倉庫門櫓牆壁[9]などが多数崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえてが湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった。船で逃げたり山に避難したりすることができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった。
                           ───『日本三代実録』(日本紀略 類聚国史一七一)

脚注[編集]



(一)^ abcd

(二)^ ab

(三)^  

(四)^ 

(五)^ 

(六)^ 

(七)^ 

(八)^  (2011528). (PDF). .  NPO . 2013122

(九)^ -

関連項目[編集]