皆川隆之
皆川 隆之︵みながわ たかゆき、1942年3月4日 - ︶は、日本の脚本家・映画監督。
経歴[編集]
東京都世田谷区松原町出身[1]。佼成学園高校三年のとき、八木保太郎に師事してシナリオを学ぶ[1]。1964年、青山学院大学経済学部卒業後演出を志し東映入社[2]。東映京都撮影所に配属され、伊藤大輔、深作欣二、鈴木則文らの助監督に就く[2]。1971年﹁女番長シリーズ﹂一作目の﹃女番長ブルース 牝蜂の逆襲﹄で脚本が採用され、同シリーズ4本の脚本を担当。 1973年、﹃狂走セックス族﹄で監督昇進。31歳の若き新人監督として期待された[2]。1974年の﹃仁義なき戦い 完結篇﹄は一部の資料に監督を深作欣二と皆川のダブル・クレジットとするものがある[1][3]。﹁B班監督をずいぶんやりました﹂と皆川は話している[1]。もともと時代劇が好きで東映入りした経緯があり、その後はテレビ時代劇の脚本・演出が増え、4本を演出した松方弘樹主演の﹃徳川三国志﹄(NET、75~76年)が吉津正プロデューサーに評価され、テレビ時代劇の演出が増えた[1]。﹁江戸を斬るシリーズ﹂︵TBS︶系や﹃疾風同心﹄︵東京12チャンネル)など、東映太秦映像製作の時代劇を演出した。1976年に深作らから﹁皆川にもう一度チャンスをやってくれ﹂と推薦があり[1]、﹃くの一忍法 観音開き﹄を監督。﹁何でこんな映画を﹂という思いがあってノリきれず[1]。再び、テレビに戻り、監督作品は二本に終わった。他に吉田隆のペンネームで﹁水戸黄門﹂や、﹁太陽にほえろ!﹂︵日本テレビ)350話﹁高校時代﹂などのシナリオを書く[1]。 1982年春、父親がガンになり、﹁帰ってきてくれ﹂と言われ、映画界に執着心も強くなく、東映を退社[1]。家業である渋谷の中華料理店﹁皆楽﹂を継ぐ。井の頭線の再開発で赤坂に移転し﹁櫻花亭﹂を開業。現在は息子が﹁広東厨房 赤坂 櫻花亭﹂を継いでいる[1]。逸話[編集]
監督[編集]
映画[編集]
- 狂走セックス族 (1973年)
- くの一忍法 観音開き (1976年)
テレビドラマ[編集]
脚本[編集]
映画[編集]
- 女番長ブルース 牝蜂の逆襲(1971年)
- 女番長ブルース 牝蜂の挑戦(1972年)
- 女番長ゲリラ(1972年)
- 女番長(1973年)
- 学生やくざ(1974年)
テレビドラマ[編集]
- 太陽にほえろ!(日本テレビ)
- 第350話「高校時代」(1979年4月13日)
- 銭形平次 、フジテレビ
- 第748話「一日だけの家出」(1980年12月24日)
- 第815話「悪への惑い」(1982年6月23日)
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『日本映画テレビ監督全集』キネマ旬報社、1988年。
- 『日本不良映画年代記』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2016年。ISBN 978-4-8003-0900-6。
外部リンク[編集]