看板のピン
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あらすじ
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演者はまず、サイコロの由来について、以下のようにもっともらしく語る。
●サイコロは、釈迦が説教をする際、人集めのために賭場を開くことを思いつき、その道具として考案したもので、試みはうまくいき、釈迦は賭博の収益で祇園精舎という寺を建てた。だから博打の金を寺銭といい、負ける事を﹁お釈迦になった﹂という。
博徒たちが、チョボイチに興じているが、動く金額が少ないため、退屈し始めている。そこへ彼らの親分が現れ、博徒たちは胴元になるよう頼む。親分はこれを承諾する。親分が壺ざるを振って伏せたところ、サイコロがきちんと中に入らず、ピン︵=1︶の目が出たサイコロが壺ざるの外に転がってしまっているが、﹁さあ、いくらでも張って︵=賭けて︶来い。年をとって、目がかすみ、耳が遠くなったが、お前たちには負けない﹂と言い、気づくそぶりを見せない。それに気づいた博徒達は、全員があり金をピンの目に賭ける。
親分は﹁みんな揃ったな。では、このサイは片付けよう﹂と、見えていたサイコロを取り除いてしまう。﹁これは看板︵=見せかけ︶のピンだ。壺の中に、本当のサイがある。俺の見立てでは、5が出ているだろう﹂こう言って親分が壺ざるを上げると、サイコロは親分の言った通り5の目を出していたので、博徒たちは驚く。親分は賭け金を博徒達に返し、﹁賭けごとなどというものは、こういう具合に、どんな汚い手を使われるかわからない。これにこりたら、もう博打︵ばくち︶なんてするのではないぞ﹂といい、賭場を去る。
この場に居合わせて、強く感心したひとりの男は、親分の真似をして儲けようと、他の賭場へ向かう。男が胴元になり、1の目が出たサイコロを壺ざるの外へこぼし、﹁年をとって、目がかすみ、耳が遠くなったが……﹂とつぶやいてみせると、周りの者が﹁お前はまだ26だろう﹂とからかいつつ、こぼれたサイコロに気づく。賭け子の全員が1に賭ける。男が﹁これは看板のピンだ。壺の中に、本当のサイがある。俺の見立てでは、5が出ているだろう﹂と言って壺を上げると、
﹁中もピンだ﹂
バリエーション
[編集]- 親分でなく、彼らとは無関係の、かつて博徒として鳴らした年輩の男を誘う演じ方がある。
関連項目
[編集]主人公が他人の言動を真似して失敗する噺。