矢島せい子
やじま せいこ 矢島 せい子 | |
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生誕 |
1903年4月6日 日本 東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草) |
死没 |
1988年1月24日(84歳没) 千葉県市川市[1] |
出身校 | 日本女子大学 中退 |
職業 | 社会福祉運動家、民俗学者 |
配偶者 | 矢島祐利 |
子供 |
矢島文夫(1928 - 2006) 矢島敬二(1930 - ) 元大学教授 矢島まさ子(1932 - 1937) 矢島敏彦(1934 - 1994) 元大学教授 |
親 | 父:竹芝傳蔵 |
親戚 |
弟:沢村国太郎 妹:沢村貞子 弟:加東大介 |
矢島 せい子︵やじま せいこ、1903年4月6日 - 1988年1月24日[2]︶は、日本の社会福祉運動家・民俗学者。障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会初代会長、ヘレン・ケラー賞受賞者[2]。
人物・来歴[編集]
1903年︵明治36年︶4月6日、東京府東京市浅草区︵現在の東京都台東区浅草︶に歌舞伎作者・竹芝伝蔵︵本名・加藤伝太郎︶の娘・加藤せい子として生まれる[2]。弟に俳優の四代目澤村國太郎、加東大介、妹に女優の沢村貞子がいる[2]。幼くして叔母の石井家に養女に出され、弟妹たちとは異なる生活を送る[3]。 旧制・佐藤高等女学校︵現在の女子美術大学付属高等学校︶を卒業し[3]、日本女子大学家政科に入学する[2]。1922年︵大正11年︶、同学を中退した[2]。1923年︵大正12年︶9月1日の関東大震災に被災し、栃木県に疎開する[3]。同地で旧制小学校の代用教員を務め、翌年、小学校本科教員の資格を取得、1925年︵大正14年︶に旧制・浅草小学校︵現在の台東区立浅草小学校︶に転勤する[3]。 1926年︵大正15年︶8月、旧制・東京帝国大学︵現在の東京大学︶に勤務する科学史家の矢島祐利と結婚[2][3]、同年12月、浅草小学校を退職する[3]。文夫、敬二、まさ子、敏彦の4児をもうける[3]。1937年︵昭和12年︶、まさ子、敏彦が疫痢を患い、まさ子が亡くなる[3]。 1941年︵昭和16年︶、夫が旧制・京城帝国大学︵現在のソウル大学校︶教授に就任して、日本統治時代の朝鮮の京畿道京城府︵現在のソウル特別市︶に滞在する[4][3]。翌年、京城幼児生活団の活動を始める[3]。 第二次世界大戦終結後、帰国して、夫は進駐軍の経済科学局に勤務する[3]。1948年︵昭和23年︶、夫が東京物理学校︵現在の東京理科大学︶教授に就任している[4][3]。1952年︵昭和27年︶、﹁日本子どもを守る会﹂が結成されこれに参加する[3]。 1953年︵昭和28年︶、夫との共著﹃家事と雑用﹄を岩波書店から上梓する。1967年︵昭和42年︶、﹁障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会﹂を結成、初代会長に就任する[2]。﹁日本子どもを守る会﹂副会長にも就任、障害者や児童の福祉に尽くした[2]。1977年︵昭和52年︶、ヘレン・ケラー賞を受賞した[2]。 1988年︵昭和63年︶1月24日、死去[2][3]。84歳没。墓所は市川市霊園。没後に回想録が多く出版された。夫の祐利は1995年に没した。子息の文夫はオリエント学者で京都産業大学、宮城学院女子大学教授を歴任、敬二は東京理科大学教授、敏彦︵1994年没︶は埼玉大学教授となった。主な著作[編集]
国立国会図書館蔵書[5]。
●﹃家事と雑用﹄、共著矢島祐利、岩波婦人叢書、岩波書店、1953年
●﹃矢島せい子のくらしの歳時記﹄、労働教育センター、1979年8月
●﹃わたしの思い出﹄、ドメス出版、1988年1月
●﹃日本の食べものよもやま話﹄、労働教育センター、1988年5月 ISBN 4845000237
●﹃矢島せい子の足跡﹄、共著矢島祐利、ドメス出版、1989年1月
●﹃あらくさの花﹄、共著矢島祐利、ドメス出版、1989年12月
論文[編集]
●国立情報学研究所収録論文 国立情報学研究所.2010.05.17閲覧。註[編集]
外部リンク[編集]
- うずら文庫 - 矢島敬二による矢島家のウェブサイト