石橋思案
石橋 思案︵いしばし しあん、1867年7月3日︵慶応3年6月2日︶ – 1927年︵昭和2年︶1月28日︶は、日本の小説家。本名、助三郎。横浜弁天町生れ。東京帝国大学中退。
尾崎紅葉らとともに硯友社を創設し﹁我楽多文庫﹂を発行。﹁乙女心﹂﹁わが恋﹂﹁京鹿子﹂などを発表したが振るわず、後に博文館に入社し、﹃文芸倶楽部﹄を編集した。﹁雨香﹂とも号し、また都々逸では﹁自劣亭﹂の号を用いて活躍した。
硯友社社友。後列左より武内桂舟、川上眉山、江見水蔭。前列左より巌 谷小波、石橋思案、尾崎紅葉。1891年
1885年︵明治18年︶、紅葉、山田美妙、丸岡九華らと文学結社である硯友社を結成し[1]、﹁我楽多文庫﹂を発行する。これに処女作﹁仇桜遊里廼夜嵐﹂を発表した。當時雨香と号していたが、石橋思案を筆名とし︵思案とは、父祖の故郷長崎にある思案橋に因む︶、﹁花盗人﹂︵1889年︶、﹁乙女心﹂︵1889年︶、﹁京鹿子﹂、﹁わが恋﹂︵1894年︶などの小説を執筆した。一方、自劣亭と号し都々逸でも活躍した︵﹁我楽多文庫﹂が都々逸を掲載するのをやめる際、廃止反対をしている︶。
だが戯作臭の強い作品は読者に受け入れられず、1895年︵明治28年︶、博文館より﹃文芸倶楽部﹄が創刊されるにあたって編集主任を任された。この後、﹁いさみ新聞﹂、﹁名古屋中京新聞﹂、﹁團々珍聞﹂と渡り歩き、﹁中央新聞﹂では主任、﹁読売新聞﹂では社会部長となる。1903年︵明治36年︶、再び博文館に入り、﹃文芸倶楽部﹄の編集にたずさわった。1916年︵大正5年︶、博文館を退社、1927年︵昭和2年︶1月29日、脳溢血のため死去した。
福田恆存年譜には、思案が恆存の名付け親だと書かれている。