福原就清
表示
福原 就清︵ふくばら なりきよ、宝暦6年︵1756年︶ - 寛政3年8月18日︵1791年9月15日︶︶は、長州藩永代家老・宇部領主福原家20代。
父は福原広門。母は毛利元雅の娘。正室は毛利就禎の娘。継室は毛利広豊の娘。養子は福原房純。通称少輔三郎、丹波、播磨、豊前。
生涯[編集]
宝暦6年︵1756年︶、長州藩家老福原広門の長男として生まれる。安永3年︵1774年︶、藩主毛利重就の偏諱を受け、初名の俊郷︵としさと︶から就郷︵なりさと︶、次いで就清に改名。安永9年︵1780年︶、光格天皇即位の祝賀使を務める。天明6年︵1786年︶、長州藩が関東諸河川普請手伝の幕命を受け、河川普請総奉行を務める。天明7年︵1787年︶に﹁猗園随筆﹂を著した。﹁猗園﹂には傾倒する荻生徂徠の伝記等を収録。天明9年︵1789年︶、父の隠居により家督を相続する。 寛政3年︵1791年︶5月、徳山藩主毛利就馴の子の馴倫︵よしのり、後の房純︶を養嗣子とする。同年8月18日、江戸藩邸で死去。享年36。参考文献[編集]
- 「宇部市史」
- 「福原家譜」(東京大学史料編纂所)