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等松 農夫蔵︵とうまつ のぶぞう、1896年︵明治29年︶4月25日 - 1980年︵昭和55年︶12月28日︶は、日本の海軍軍人︵主計科士官︶。海軍経理学校6期。最終階級は海軍主計少将。戦後は公認会計士となり、有限責任監査法人トーマツを創設した。
人物・来歴[編集]
群馬県高崎市吉井町︵旧吉井町︶出身。幼年期に判事であった父・金作を亡くし、叔父一家に引き取られる。群馬県立富岡中学校︵現・群馬県立富岡高等学校︶を経て、海軍経理学校を1917年に卒業︵6期︶、海軍主計少尉候補生を命じられる。遠洋航海を経て、1918年、戦艦﹁扶桑﹂乗組。1919年、海軍主計少尉に任官。1920年、海軍主計中尉に進級。1922年、遠洋航海の指導官として世界一周。1923年、 海軍主計大尉に進級。1929年、海軍主計少佐に進級。この間、東京帝国大学に3年間派遣されて法学、行政学、経済学、会計学などを学ぶ。1934年、海軍主計中佐に進級。1934 - 36年、ロンドンに駐在し欧州各国軍の主計制度を研究。1937 - 38年、海軍経理学校教官として主計科短期現役士官制度︵短現︶の創設に尽力し、教科書として﹃軍政学﹄を執筆。1939年、海軍主計大佐に進級。1940 - 41年、第十一航空艦隊主計長。1942年、空技廠支廠会計部計算課長。1945年、海軍主計少将に進級し、第一技術廠会計部長。敗戦時には横須賀鎮守府軍需部長。帝国海軍の官制が廃止された11月30日に予備役編入。12月1日に即日充員召集、横須賀地方復員局需品部長。1946年に召集解除、公職追放を受ける[1]。
戦後の日本経済の発展には経理・監査業務が不可欠であると感じて独立を決意し、等松監査事務所を設立する。創設メンバーの多くは、元・海軍主計科士官であった。従来日本の企業はいわゆる﹁どんぶり勘定﹂で経営を行っており、監査という概念は希薄であった。等松の事業も当初は理解されず﹁そんなもんに金払う馬鹿がどこにいる﹂といわれるありさまであった。しかし、地道な努力で日本に監査という概念を根付かせた。1968年、青木大吉らとともに等松・青木監査法人を設立。1971年、ニューヨーク事務所開設のため米国訪問中に倒れ、それを機に第一線を引退した。1975年、トウシュ・ロス・インターナショナルへの加盟を果たした。1980年、死去、84歳。
その後、等松・青木監査法人は、1986年に監査法人サンワ事務所と合併してサンワ・等松青木監査法人となるなどの発展を続け、2018年現在は有限責任監査法人トーマツとして、4大監査法人の一角を占めている。
また、トウシュ・ロス・インターナショナルは1990年に等松の名を冠したデロイト ロス トーマツ インターナショナルに名称を変更。その後1992年にデロイト トウシュ トーマツ インターナショナルに、1998年にはデロイト トウシュ トーマツに変更、現在に至る。
注釈・出典[編集]