篠塚藩
篠塚藩(しのづかはん)は、上野国邑楽郡篠塚村(現在の群馬県邑楽郡邑楽町篠塚)を居所として、江戸時代中期にごく短期間存在した藩。1747年に陸奥桑折藩主・松平忠恒が領地の過半を上野国に移されて成立したが、翌年に同国碓氷郡内に居所を移して上里見藩となった。
歴史[編集]
前史[編集]
「桑折藩」も参照
篠塚藩主となる松平忠恒︵奥平松平家︶は、移封以前は陸奥桑折藩2万石の藩主であり、江戸幕府においては奏者番を務めていた[1]。桑折藩領の伊達郡北半田村︵現在の福島県伊達郡桑折町北半田︶には[2]半田銀山があり[3]、享保8年︵1723年︶に有望な新鉱脈が見つかったことから、幕府の注目するところとなっていた[3]。
立藩から廃藩まで[編集]
延享4年︵1747年︶7月、半田銀山およびその周辺の所領︵陣屋所在地の桑折村を含む[4]︶1万2250石が幕府に召し上げられ、上野国邑楽・吾妻・利根・碓氷・緑野郡および伊豆国田方郡の合計2国6郡内に替地が与えられた[1]。この際、忠恒は邑楽郡篠塚村に陣屋を構えたとされ、篠塚藩が成立した[1]。ただし、﹃角川日本地名大辞典﹄では、忠恒が定府の大名であり、短期間で移封されたことからも、﹁篠塚に居所を構えたことには疑問の余地がある﹂と記している[1]。なお、忠恒は篠塚村全体を支配したわけではなく、半分ほどの領主であった︵相給︶[注釈 2]。同年、忠恒は寺社奉行に就任した[1]。 翌寛延元年︵1748年︶8月、陸奥国伊達郡内3650石の所領が上野国碓氷・群馬両郡に移された[1]。これに際して忠恒は碓氷郡上里見村︵現在の高崎市上里見町︶に居所を移した[1][6][注釈 3]。これにより篠塚藩は廃藩になったと見なされ、上里見藩が立藩した[1][6]。後史[編集]
居所の移転後も、篠塚村には引き続き松平忠恒の所領︵上里見藩領︶が残された[5]。明和4年︵1767年︶、松平忠恒は小幡藩に移封された[6][8][注釈 4]。翌明和5年︵1768年︶、篠塚村は幕府領となった[5]。
歴代藩主[編集]
松平︵奥平︶家 2万石。譜代。- 忠恒(ただつね)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ abcdefgh“篠塚藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年6月10日閲覧。
(二)^ “北半田村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年6月10日閲覧。
(三)^ ab“桑折藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年6月10日閲覧。
(四)^ “桑折村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年6月10日閲覧。
(五)^ abc“篠塚村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年6月10日閲覧。
(六)^ abc“上里見藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年6月10日閲覧。
(七)^ “上里見村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年6月10日閲覧。
(八)^ ab“小幡藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年6月10日閲覧。