芦田惠之助
(芦田恵之助から転送)
芦田 惠之助︵あしだ えのすけ、1873年1月8日 - 1951年12月9日︶は、明治から昭和を生きた教育者。兵庫県出身[1]。
人物[編集]
16歳で、故郷の竹田村の竹田簡易小学校の授業生という呼び名の教員になって、教職のスタートを切る。その後1898年、上京して、東京高等師範学校附属小学校︵現‥筑波大学附属小学校︶訓導、樋口勘次郎に学び、綴り方教育を提唱。1902年、郷里に戻り、兵庫県姫路中学校︵現・兵庫県立姫路西高等学校︶の助教諭にとなり、ここで国語教育の実践を展開していく。 彼の立場は、今の言い方でいえば﹁自由作文﹂、当時は﹁随意選題﹂といった。これは同時代、ドイツのハンブルクを中心に展開された芸術教育運動の中の作文教育で提唱されたものとほとんど時を同じくしたものである。 いわゆる芦田教式︵七変化︵しちへんか︶の教式とも呼ばれる︶を創始。小学校国語教育に多大な影響を与える。影響を与えた人物に埼玉県の綴方教育の先導者となった下山懋がいる。 尋常小学唱歌﹁日本海海戦#日本海海戦を題材とした作品﹂を作詞。経歴[編集]
●1873年︵明治6年︶1月8日 兵庫県氷上郡竹田村樽井に生まれる。父、小笠原儀兵衛。母、かな。2女2男の末子。 ●1951年︵昭和26年︶12月9日 兵庫県氷上郡竹田の法楽寺にて死去。78歳。法名、徳教院育道惠雨居士。脚注[編集]
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 35頁。