蕭子隆
蕭 子隆︵しょう しりゅう、元徽2年︵474年︶- 延興元年9月12日[1]︵494年10月26日︶︶は、南朝斉の皇族。隨郡王。武帝蕭賾の八男。字は雲興。
経歴[編集]
蕭賾と王淑儀のあいだの子として生まれた。はじめ枝江公に封じられた。建元4年︵482年︶、武帝が即位すると、子隆は隨郡王に改封された。永明3年︵485年︶、輔国将軍・南琅邪彭城二郡太守となった。永明4年︵486年︶、江州刺史に任じられた。赴任しないうちに、唐寓之の乱が平定されると、子隆は持節・都督会稽東陽新安臨海永嘉五郡諸軍事・東中郎将・会稽郡太守に転じた。ついで中書令を兼ねた。子隆は尚書令王倹の娘を妃として迎えた。子隆は武帝の諸子の中では最も才能に優れており、武帝は子隆のことを﹁我が家の東阿なり﹂と評し、王倹は﹁実は皇家の藩屏なり﹂と答えた。永明7年︵489年︶、中護軍となった。侍中・左衛将軍の位に転じた。永明8年︵490年︶、魚復侯蕭子響に代わって使持節・都督荊雍梁寧南北秦六州諸軍事・鎮西将軍・荊州刺史となった。始興王蕭鑑が益州刺史を退任すると、子隆が都督益州諸軍事をつとめた。永明9年︵491年︶、自ら王府と州の事務を総覧した。永明11年︵493年︶、晋安王蕭子懋が雍州刺史となると、子隆は都督の任を解かれた。蕭昭業が即位すると、子隆は征西将軍に進んだ。 隆昌元年︵494年︶、侍中・撫軍将軍の位を受けた。同年︵延興元年︶、中軍大将軍に転じた。子隆は21歳でその体格は肥満しており、蘆茹丸を常に服用して減量につとめていた。9月、宣城公蕭鸞の命により殺害された。﹃文集﹄が刊行されて当時に通行した。脚注[編集]
- ^ 『南斉書』巻5, 海陵王紀 延興元年九月癸未条による。