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家族 親族[編集]
●父・徹造
●妻・さと︵永見誠斎の二女︶
実家は医家であり、その父は勤皇の志士として倒幕に活躍し、京都でたおれた。
●長男 正︵実業家、財界人︶
同妻 こを︵境町、回船問屋・海運業者栢木節蔵の二女︶
栢木節蔵は、明治5年︵1872年︶第91区︵境町︶戸長︵大庄屋︶、明治6年︵1873年︶第13大区小12区︵栄町、相生町、花町、入船町、朝日町、末広町、松ヶ枝町、遊亀町︶小区長などを務めた。[5]
同 後妻 靖子︵古河鉱業重役・飯島純介の長女︶
関連項目[編集]
●足立氏
●足立正
(一)^ ﹃島根鳥取名士列伝、下﹄百五十七
(二)^ ﹃昭和 戦前財界人名大事典 第三巻 昭和9年﹄620頁に﹁當家は舊因州藩の大庄屋にして苗字帯刀を許されたる豪家なり﹂とある。士分の在方役人に対して郡村行政の実務を担当したのが大庄屋以下の農村自治役人であり、在役人と呼ばれた。在役人はまた郡政を担当する郡役人と、村政を担当する村役人に区分される。郡村行政の最高責任者が大庄屋で、藩初期の会見郡には4名が配置され、会見郡を4構に区分して各々の行政を分担した︵﹃境港市史 上巻﹄336頁︶。足立正の﹃私の履歴書﹄によれば﹁家業は酒造りであったが、かなりの田畑をもっていて耕作は小作人にまかせていた。代々大庄屋をつとめていたので、平民ではあったが、名字帯刀を許された郷士の家柄であった。そんなだから家には武芸をとうとぶ気風がのこっていて…﹂という
(三)^ 足立正は﹃私の履歴書﹄に﹁家にはつねに駿馬が二頭飼ってあった。その影響をうけて父も馬術が上手だったが、むしろ父は剣道の腕のほうがたしかだったようだ。…小学校2年のときにはすでに父から直接、剣道の手ほどきをうけた。﹂と書いている
(四)^ 足立正は﹃私の履歴書﹄に﹁境の私の生家と藤原銀次郎さんの奥さんの実家とは、実は隣同士で、親類同様に親しくおつきあいをしていた。そんなわけだから、私の家へ藤原さんから奥さんの身もとしらべにきたときには、父はタイコ判をおしてあげたり、それが機縁でおふたりが結ばれたのちは、藤原さん自身もちょいちょい私の家に遊びに見えた。﹂と書いている
(五)^ 戸長の中には、他村の戸長を任命されたり、兼務する例もあったが、概して町村内から選ばれており、町村代表の性格を残した