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﹃運命﹄︵うんめい︶は、幸田露伴による歴史小説。初出は雑誌﹃改造﹄1919年︵大正8年︶4月創刊号に掲載された。
1398年、明朝の太祖洪武帝が崩じ、孫の建文帝が即位した。心やさしいが気弱な22歳の皇帝だった。皇帝の地位安定のために側近の廷臣たちは、実力のある皇族たちを相次いで粛清したが、やがて叔父である太祖第四子燕王︵永楽帝︶と、皇帝の座をめぐり甥と叔父との激烈な戦い﹁靖難の役﹂となった。建文帝は追われ潜伏し僧となり、雲南の地などを何十年と流浪せるも、平和な一生を送ったのに対し、永楽帝は長く在位せるもいささかも安穏の日は無く、晩年も遠征が相次ぎ、その最中に病により崩じた。
﹃明史﹄や﹃明史紀事本末﹄などを元にしたフィクション︵物語︶であるが、当初作者はこれを半ば事実と思っていたようで、岩波文庫で再刊に際し跋︵あとがき︶で、﹁これは史実ではなかったと、後で知ったと思う︵大意︶﹂と記している。
助手で﹁露伴全集﹂も編纂した塩谷賛は、伝記﹃幸田露伴﹄下巻の﹁運命の章﹂︵中央公論社︶で、当初の表題は﹃定数﹄だったと述べている。
現在の評価[編集]
高島俊男は﹃露伴﹁運命﹂と建文出亡伝説﹄[1]で、本作品と中国の歴史家たちの研究との照合をしてみると、発表時に谷崎潤一郎、斎藤茂吉や小泉信三等がその﹁文体﹂に感激したというこの史伝は、元ネタの﹃明史紀事本末﹄を、漢文訓読文で単純に読み下したものにすぎず、文学的に評価するのはおかしいと主張している。なお、露伴が執筆時に事実と信じていた[2]流浪説についてであるが。現在︵1994年時点︶、中国の研究者は概ね建文帝は生きていた︵出亡説︶の立場に立つ。一方で日本の研究者はこの問題に対して真実か否かを真正面から取り上げることは無く単なる逸話の一つとして取り上げるだけである。
中国文学者の井波律子は、直接高島の論には触れず、露伴は取捨選択し描いていると評価している[4]。
文芸評論家の福田和也は、露伴はたくさんの中国の文献を読んではいるが、解釈も意味づけもせず図書館のように並べているだけだとする高島の批判に対し、﹁それだからこそ、すごいんじゃないかと思う﹂﹁批判しているつもりだけれども、それは逆に露伴のすごさを図らずも示している。﹃運命﹄は本当にいいものです﹂と述べている[5]。
主に古代中国を題材に歴史小説を書いている宮城谷昌光も、随筆集で作家の立場から﹁運命﹂を論じている[6] 。宮城谷が尊敬する、古代中国研究の碩学白川静は若き日の愛読書に挙げている。