出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鄭 吉︵てい きつ、? - 紀元前48年︶は、前漢の人。会稽郡の人。
兵卒として従軍して何度か西域に出征し、そこで郎となった。力と意思が強く、外国の事に詳しかった。
宣帝の地節2年︵紀元前68年︶、漢は鄭吉を侍郎とし、渠犁国に派遣して刑を免除した罪人に耕作させて兵糧を集め、車師国を攻めようとした。収穫が終わると鄭吉は周辺の国々から兵を徴発し、自分が率いる屯田兵1500人と共に車師を攻撃した。車師は匈奴に援軍を要請したが、匈奴の援軍も鄭吉が迎撃に出ると前進せず、車師王は烏孫に逃亡した。漢は鄭吉を衛司馬とし、﹁護鄯善以西南道﹂︵西域南道の監督役︶とした。
神爵年間に匈奴が混乱すると、匈奴の日逐王︵単于の従兄︶が漢への降伏を鄭吉へ打診した。神爵2年︵紀元前60年︶、鄭吉は渠犁・亀茲の兵を徴発して日逐王と彼が率いてきた12,000人を迎え、途中で離反した者は斬刑に処して長安まで連行した。
日逐王の降伏により、鄭吉は﹁護車師以西北道﹂ともなり、以前の職と合わせて西域の南北両道の監督役となったことで、西域都護となった。神爵3年︵紀元前59年︶、以前の功績と併せて安遠侯に封じられた。また日逐王はこのとき帰徳侯に封じられた。
鄭吉は都護の幕府を西域の中心に置き、烏塁城を治所として西域諸国の鎮撫に携わった。
鄭吉は初元元年︵紀元前48年︶に死亡し、繆侯と諡された。安遠侯は子の鄭光が受け継いだが、彼には子がなかったので彼の代で断絶した。居摂元年︵6年︶、王莽が断絶した功臣を復興させた際に、鄭吉の曾孫にあたる鄭永が安遠侯となったが、王莽が滅びると断絶した。
参考文献[編集]
- 班固著『漢書』巻17景武昭宣元成功臣侯表、巻70鄭吉伝、巻96西域伝