金信則
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金信則 | |
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 慶長14年3月29日(1609年5月3日) |
別名 | 小三郎、主水 |
主君 | 津軽為信→信枚 |
氏族 | 安倍氏流金氏 |
父母 | 父:金信就 |
子 | 信久 |
金 信則︵こん のぶのり︶は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。津軽氏の家臣。
出自[編集]
金氏は津軽氏の重臣。﹁金﹂姓は﹁今﹂﹁昆﹂とも書き、信則の祖父は今信忠、曽祖父は今信綱である。また、﹁金﹂と﹁今﹂は本別家の関係であるとの説もある[1]。生涯[編集]
金信就の子として誕生。 慶長5年︵1600年︶、関ヶ原の戦いにおける西軍の勝利を信じた尾崎喜蔵、板垣将兼、多田玄蕃ら500人が堀越城を武力占拠すると、信則は板垣、尾崎の2人を討ち取り、この反乱を収拾。この功績で津軽為信から500石を賜った。慶長8年︵1603年︶、父・信就の死で1000石を継ぎ、1500石の大身となった。 その後、為信の長男・信建の子である熊千代附となるが、慶長14年︵1609年︶、熊千代の跡目相続が認められなかった事による津軽騒動により、同年3月29日切腹した。 なお、子・信久が兼平信孝に引き取られ、後に100石で与力となり、存続した[2]子孫には金氏が下新岡村を領し、金信就が﹁下新岡信就﹂を称したことから、﹁新岡﹂姓を名乗り、累代郷士となったものもいる。[3]。脚注[編集]
出典[編集]
- 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社