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津軽 信建︵つがる のぶたけ︶は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。津軽為信の長男。
天正2年︵1574年︶、陸奥国津軽地方の戦国大名・津軽為信の長男として誕生。烏帽子親は石田三成が務めた。正室は秋田実季娘。継室は松前慶広娘。
父の命により大坂城の豊臣秀頼に小姓として仕えるが、慶長5年︵1600年︶の関ヶ原の戦いにて西軍︵石田三成︶についた。一方で、父・為信は東軍として関ヶ原方面での本戦︵大垣城包囲︶に参戦しており[2]、この行動は真田家や九鬼家などと同様の﹁家中二分による生き残り策﹂とも考えることができる。
関ヶ原の戦い後に蟄居しそのまま病死した、とされることが多いが、戦後も徳川家康と面会したり、御所に参内して官位を授けられたり、国入りして藩政を父に代わって直裁するなど、内外共に認める為信の正式な後継者としての行動が確認できる。西軍の敗北後、三成の次男・重成らを若狭国からの蝦夷貿易ルートで津軽へ逃し、信建本人は京・大坂に留まり、津軽家の外交要員として活動していたらしく、公家たちとの盛んな交流が公家側の日記に残る︵西洞院時慶﹃時慶卿記﹄︶。父とは別に直臣団を持ち、津軽建広・津軽建友ら側近を軸に藩政に外交に精力的に活動していた。また弟・信枚︵為信三男︶と同じく、父の命によりキリシタンとなっている。
慶長7年︵1602年︶、父・為信が誤って、手元に預かっていた孫・熊千代の顔に怪我をさせてしまい、このことで信建は子供を返せと父と対立した。その際、使者に立った家臣・天童某の不手際を責め、一族を処刑した。これに怒った天童一族が信建に反抗して城内で乱闘、信建は命からがら逃げる一幕もあったが、最終的に天童一族は討伐された︵天童事件︶。なお、この事件により天童方が津軽家の居城・堀越城の本丸まで易々と突入に成功した事実により、沼田祐光の意見を採用した新城・高岡城︵弘前城︶への本拠地移転が早まったといわれている。
慶長12年︵1607年︶、京にて病を発症した。同じ頃津軽にて、同じく病を患った為信が、信枚を伴い京まで見舞いに駆けつける[3]。同年10月13日︵2月とも︶死去。享年34とされる。その2ヵ月後の12月、為信も死去した。西洞院時慶は死後数年、自身の菩提寺にて信建の法要を行ったらしい。
信建は父より先に死去したこともあり、正式に代を譲られておらず、為信の跡は弟の信枚が継ぐことになった。ところが、信枚派と信建の遺児熊千代︵大熊︶を擁立する建広ら旧信建直臣団派閥とに家中が二分し、お家騒動が起こった︵津軽騒動︶。
- ^ 異説として慶長11年(1606年)12月20日没とも
- ^ 実際に現地で参戦し指揮を執っていたのは三男の信枚。合戦を描いた屏風絵などで少数ながらも津軽勢の本戦参加が確認できる、とされている。
- ^ 一説には信建の治療をしている名医に自分も診てもらいたかったからだとされる。