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陳伯山︵ちん はくさん、550年 - 589年︶は、南朝陳の皇族。鄱陽王。文帝陳蒨の三男。字は静之。
陳蒨と厳淑媛のあいだの子として生まれた。天嘉元年︵560年︶7月、鄱陽王に封じられた。10月、東中郎将・呉郡太守に任じられた。天嘉6年︵565年︶12月、縁江都督・平北将軍・南徐州刺史に転じた。天康元年︵566年︶5月、鎮北将軍に進んだ。光大元年︵567年︶2月、鎮東将軍・東揚州刺史に転じた。太建元年︵569年︶1月、召還されて中衛将軍・中領軍に任じられた。太建6年︵574年︶6月、征北将軍・南徐州刺史となった。太建7年︵575年︶10月、征南将軍・江州刺史に転じた。太建11年︵579年︶6月、入朝して中権将軍・護軍将軍の号を受けた。太建13年︵581年︶1月、開府儀同三司の位を受けた。太建14年︵582年︶1月、後主が即位すると、中権大将軍に進んだ。至徳4年︵586年︶1月、鎮衛将軍に進んだ。9月、持節・都督東揚豊二州諸軍事・東揚州刺史として出向し、侍中の位を加えられた。禎明元年︵587年︶、生母が死去したため、辞職して喪に服した。禎明2年︵588年︶、再起して鎮衛大将軍・開府儀同三司となった。
禎明3年︵589年︶1月、死去した。享年は40。まもなく陳が滅んだため、贈諡はなかった。
伝記資料[編集]
- 『陳書』巻28 列伝第22
- 『南史』巻65 列伝第55