陸軍宮古島中飛行場
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宮古島陸軍中飛行場 (野原飛行場) | |
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沖縄県宮古島市 | |
![]() 1945年の野原飛行場 (英国海軍アーカイヴス) | |
![]() 日本軍が宮古島で建設した三カ所の飛行場 | |
種類 | 沖縄の旧日本軍施設 |
施設情報 | |
管理者 | 日本帝国陸軍 |
歴史 | |
建設 | 1944年 |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/51/Nobara_Airfield_1944.png/268px-Nobara_Airfield_1944.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/58/Nobara_Airfield_target_map_1944.png/270px-Nobara_Airfield_target_map_1944.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/36/Naval_Avengers_in_their_bombing_dive_over_Nobara_airfield_on_Miyako_Jima_1945.jpg/395px-Naval_Avengers_in_their_bombing_dive_over_Nobara_airfield_on_Miyako_Jima_1945.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f3/Bombing_on_Nobara_airfield%2C_Miyako_%281945-5-24%29.jpg/270px-Bombing_on_Nobara_airfield%2C_Miyako_%281945-5-24%29.jpg)
陸軍宮古島中飛行場 (野原飛行場) (りくぐんみやこじまなかひこうじょう・のばるひこうじょう) は日本軍が沖縄県の宮古島に建設した三カ所の飛行場の一つ。
戦後は野原岳に米軍基地﹁宮古島航空通信施設﹂か設置されるが、沖縄返還後は、航空自衛隊宮古島分屯基地に移管された。また2019年には陸上自衛隊宮古島駐屯地が新設された。
概容[編集]
日本軍の宮古島飛行場計画[編集]
1944年7月7日のサイパン陥落をうけ、日本は南西諸島での航空機戦略を加速させ、陸軍と海軍は宮古島の三カ所に飛行場の建設を進めた。滑走路は合計で6本となる予定であった[1]。沖縄の旧日本軍施設 | 現在 | |
10 | 海軍宮古島飛行場(平良飛行場) | 宮古空港 |
11 | 陸軍宮古島中飛行場(野原飛行場) | 空自宮古島分屯基地 / 陸自宮古島駐屯地 |
12 | 陸軍宮古島西飛行場(洲鎌飛行場) |
陸軍宮古島中飛行場[編集]
このうち陸軍中飛行場は字野原に設置されたため﹁野原飛行場﹂とも呼ばれた。陸軍中飛行場では用地約1,150,000㎡が強制接収され、二本の滑走路を有する飛行場が建設された。滑走路の規模については資料によって若干記述が異なっているが、1944年11月の第三航空艦隊司令部﹁南西諸島航空基地一覧図﹂によると、東側滑走路 1500mx200m、西側滑走路 1500mx200m とあり、また東側滑走路については未着手との書き込みが見られる[1]。しかし現在、一般的には以下のように記録されている[2][3]。
●東側滑走路 1700m
●西側滑走路 1400m
構造的には、二つの滑走路は重なることなく、6kmあまりの誘導路で連結し、25の掩体︵駐機場︶をもつ。一説には二つの滑走路は南で連結される予定であったが、窪地が障害となって連結されなかったという[4]。他の飛行場と同様、建設には多くの住民や学徒が動員されたが、飛行場の封じ込めをねらう連合国艦隊の攻撃のたびに決死の補修工事を行うも、ほとんど使用されることなく終戦を迎えた。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/40/Miyako_AS_Radomes%2C_Det1_623rd_AC%26WS%2C_1957.jpg/243px-Miyako_AS_Radomes%2C_Det1_623rd_AC%26WS%2C_1957.jpg)
野原岳にあった米軍基地﹁宮古島航空通信施設﹂(1945-1973) は空自宮古島分屯基地へ移管された。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7e/Nobara_Airfield_past_%26_present.png/322px-Nobara_Airfield_past_%26_present.png)
1945年1月3日の陸軍宮古島中飛行場の空中写真 (連合軍解析) に現在の道路等のおよその位置を重ね合わせたもの。かつての中飛行場の東西滑走路をつなぐ誘導路内に現在の陸上自衛隊宮古島駐屯地、現在のアリランの碑の近くには当時の兵舎 (barrack) があった。電波探知機壕のあった野原岳は航空自衛隊宮古分屯基地となっている。
飛行場建設と土地の接収[編集]
陸軍中飛行場は、野原の住民117人から約115haの土地を強制接収し、1944年9月から建設を開始した。 それ (陸稲) が、あと四、五日で収穫というときでした。﹁あと四、五日まってくれ﹂と頼みこみました。だが、強引にきりはらわれてしまいました。畑の主たちは涙を流していましたよ。・・・土地代は形の上ではもらいました。だが、強制的に凍結貯金ですね。未だ、実質的支払いというのはうけていません。戦後は、境界線もはっきりしないまま、大体の検討で、開こんし、小作料を払って耕作しているんですがね。 — ﹁現役兵﹂沖縄県史 第10巻 各論編9沖縄戦記録2 建設に際しては第205飛行場大隊と要塞建築第8中隊、また多くの住民が老人から子どもまで動員され、三カ所の飛行場県津に矢継ぎ早に労役を求められた。1944年5月に着工し、10月には完成するという突貫工事であった。郷土部隊として第505特設工兵大隊が召集され、夜になると空襲後の穴埋めが命じられた。 昭和十九年五月に中飛行場の工事が始まり六十一歳の父が作業に行っていた。 老人では体がもたんというので、私も病弱な体だが父と代って滑走路の整地作業に徴用された。資材の運搬作業で、馬車班として、自家用の荷馬車もろともの徴用です。 強行作業で夜は家にも帰さず、あかりをつけて夜明けまでの作業はつらかった。 あなたの島の人々を守るためだと言われ文句も言えない。 — ﹁戦時下の保良部落﹂縄県史 第10巻 各論編9沖縄戦記録2空襲[編集]
1944年10月10日、午前と午後に米軍機編隊が襲来 (十・十空襲)。宮古島の陸海3ヵ所の飛行場からは応戦に飛び立つこともなく、米軍機が撮影した空中写真は連合軍によって解析され、詳細な戦略マップの作成に利用された。1945年2月以降、連合艦隊は八重山群島の飛行場の封じ込めを目標とし、日常的に宮古島への空襲を繰り返す。海軍飛行場の滑走路は連日爆撃を受け、そのたびに住民や学徒を動員して連日の弾薬跡の埋め戻し作業が行われた[2][5]。空襲は最初は飛行場などを標的にしていたが、そのうち無差別に民間地も爆撃するようになり、多くの犠牲者が出た。 前田隊が会場(公民館)に来た頃には空襲は一段とはげしくなり 牛の飼料の草刈りにさえ行けなくなりそのうち部落の中に無差別に爆弾を落し始めた。 — ﹁戦時下の保良部落﹂﹃沖縄県史﹄ 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島2 1944年10月10日から敗戦までの10か月間に、宮古島では一日平均約50機あまりの連合国軍空軍機が飛来している。その総計は5,250機にも及ぶ。1945年4月だけでも695機が飛来した。攻撃目標は港湾、飛行場にとどまらず来間島、多良間島にまで及んだ[6]。強制疎開[編集]
宮古島に駐屯する3万人の兵士の食糧を確保するため、1944年7月の臨時閣議で、南西諸島の非労働力人口 (老幼婦女子) を台湾へ疎開させるという計画が決定された[7]。宮古島からは8月から10月にかけて一万人規模でほとんどが台湾への強制疎開であった[8]。戦後、台湾からの日本人の復員・帰還事業は早期に実現した一方で、沖縄は米軍によって占領・封鎖されたため、台湾の沖縄人は台湾の中華民国の統治下となった台湾に取り残されていくことになる。女性や子供、老人を中心に構成された台湾の沖縄人疎開者は、支援が先細るなかで、屋根も壊れて廃墟となったキールンの倉庫に身を寄せ合って暮らすなど、ほとんど棄民状態となった[9]。1945年11月1日の栄丸遭難の話が宮古島に伝えられると、いてもたってもいられず多くの人が妻子を迎えに行こうと密航船をさがした。 すぐお願いして乗せてもらいましたが満員でした。船はスオウからキールンに着きました。そこで栄丸遭難の生残り山内朝二さんに会って当時のもようを聞きました。池村一男さんは一たん乗ってからおりたということでした。宮古に帰る船を待つ人たちはみんな大変なところにいました。戦災にあったがらんどうの倉庫のようなところにみんないましたが、便所もそのなかです。あれだけたくさんの人がほんとうにみじめなものでした。 — ﹁"皇国の道"に生きた教師﹂沖縄県史 戦争証言 宮古島篇出撃記録[編集]
前述のように、滑走路への爆撃が連日続いたこともあり、実質的に滑走路を利用することは不可能であった。陸軍中飛行場から出撃した特別攻撃隊として、誠114飛行隊と、誠116飛行隊の2つの部隊が記録されている[2]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/40/Miyako_AS_Radomes%2C_Det1_623rd_AC%26WS%2C_1957.jpg/243px-Miyako_AS_Radomes%2C_Det1_623rd_AC%26WS%2C_1957.jpg)
戦後[編集]
米軍基地 - 宮古島空港通信施設[編集]
1945年8月26日、米国海兵隊2,000人をのせた LST が漲水港に入港し、日本軍の武装解除にあたった。1950年、土地の一部 (200,000㎡) が米軍基地﹁宮古島航空通信施設﹂が設置され、米軍那覇航空基地︵英語: Naha Air Base︶を本部とする航空機警戒管制飛行隊の第1分遣隊の防空レーダー基地として使用。施政権移行後 - 空自宮古島分屯基地への移管[編集]
1972年の﹁沖縄返還﹂を受け、1971年から1973年にかけて宮古島航空通信施設の土地が返還され1971年から1973年にかけての宮古島航空通信施設の返還面積は上野村183㎡、平良市17㎡の計200,000㎡となる。そのうち131,000㎡は航空自衛隊宮古分屯基地に移管された。 1973年2月15日、米軍から移管されたレーダー施設は新設の航空自衛隊の宮古分屯基地に移管された。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7e/Nobara_Airfield_past_%26_present.png/322px-Nobara_Airfield_past_%26_present.png)