青地雄太郎
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青地 雄太郎︵あおち ゆうたろう、1865年5月25日︵慶応元年5月1日[1]︶ - 1926年︵大正15年︶12月24日[2]︶は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員︵4期︶。
経歴[編集]
青地半三郎の長男として駿河国志太郡前島村︵静岡県志太郡青島村、青島町を経て現藤枝市︶に生まれる[3]。1884年︵明治17年︶11月、家督を相続した[1]。静岡中学校に学ぶ[4]。静岡の朝陽義塾、掛川の冀北学舎を経て東京専門学校に入学し[3]、1886年︵明治19年︶同校政治経済科を卒業する[2]。1889年︵明治22年︶青島村初代村長に就任し、現在の東海道本線藤枝駅の青島への誘致、役場や学校の建設、伝染病予防のための隔離病舎の建設などに尽くした[3]。ほか、地方金融の整備のため青島実業銀行︵のち頭取[2]︶を創立し、物流集散のため青島運送合資会社を立ち上げた[3]。この間、青島村会議員、志太郡会議員、同参事会員、徴兵参事員、学務委員、所得税調査委員などを務めた[2]。 1902年︵明治35年︶8月の第7回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から出馬し当選[2]。のち立憲国民党に属し衆議院議員を通算4期務めた[2]。1915年︵大正4年︶政界を引退し実業界で活躍した[3]。藤枝駅前に銅像が立つ[3]。栄典[編集]
- 勲章等