養徳院
養徳院︵ようとくいん、永正12年︵1515年︶ - 慶長13年10月26日 (旧暦)︵1608年12月3日︶[1]︶は、戦国時代︵室町時代後期︶・安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性、尼僧。池田恒利の妻、織田信秀の側室。実名は不明で、養徳院は院号、法名は桂昌。
織田信長の乳母となってからは大御ち︵おおおち︶[2][3]様とも呼ばれた。
略歴[編集]
永正12年︵1515年︶、池田政秀の娘として近江国または美濃国で生まれた[4][5]。父の政秀には嫡子が無かったため、滝川貞勝の子・恒利を養嗣子として迎え[4]、その正室となった。 天文5年︵1536年︶、恒興を出産した[4]。父と夫の主君である戦国大名・織田信秀の嫡男・吉法師︵後の織田信長︶は当時3歳であったが、乳母の乳首を噛み破る癖があって困らせていた。しかし同年[1]、彼女が乳母となってからはこれが直ったと云う。以来、﹁大御ち﹂と称された。 天文7年︵1538年︶の恒利の死後、寡婦となってからは出家して養徳院を名乗るようになったが、信秀の側室となって、娘・小田井殿︵栄輪院︶[6]を出産した。 天文14年︵1545年︶には10歳の恒興が信長の御伽小姓として召し抱えられ、信秀没後も母子共に親しくして、元亀4年︵1573年︶6月18日 、信長より知行150貫を与えられている。 天正12年︵1584年︶、恒興が小牧・長久手の戦いで戦死した後には、豊臣秀吉より﹁恒興をみるつもりで筑前︵秀吉︶をご覧ください[1]﹂と特に慰めの手紙を与えられた。 天正17年︵1589年︶11月1日 、秀吉より美濃国方県郡長良に800石を隠居地として知行されて、移り住んだ。 長寿であり、最晩年は孫の輝政の居城である播磨姫路城で暮らしていたが、慶長13年︵1608年︶10月26日[1]︵10月16日[4]︶に死去した[1]。享年94[1][4]。 紀州高野山に葬られた。戒名は養德院殿盛嶽桂昌大姉︵養徳院殿盛岳桂昌大姉︶。位牌所は備前曹源寺。京都妙心寺塔頭護国院に木像があったが、護国院焼失後は盛岳院に移され、現在は岡山県国清寺にある。脚注[編集]
(一)^ abcdef"養徳院". 日本人名大辞典+Plus,世界大百科事典. コトバンクより2021年8月27日閲覧。
(二)^ 蔵知矩 1934, p.8
(三)^ 漢字で書けば﹁大御乳様﹂だが、乳は﹁ち﹂と読み、﹁おお・お・ち・さま﹂。”御乳”は貴人の乳母の意味。目上にあたる織田信長、信雄、豊臣秀吉などの文書には﹁大御ち﹂とのみある。
(四)^ abcde岡田正人 1999, p.183
(五)^ 父の政秀の素性は出身も含めはっきりしないが、養徳院の母の戒名、命日などの記録が残っており、その中では江州池田六郎何某室とされている﹃妙心寺盛岳院過去帳﹄に﹁茂岳慶繁大姉 江州池田六郎何某室 逝年不詳十月六日 養徳院殿母公﹂との記述がある。
(六)^ 信長の異母妹、恒興の異父妹。織田信直正室