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馮 銓︵ふう せん、1596年1月12日︵万暦23年12月13日︶ - 1672年︶は、明末および清初の官員・能書家。字は振鷺。
涿州の人。父の馮盛明は万暦17年︵1589年︶の進士であり、父より学問の手ほどきを受けた。書法がすぐれ学問を好み、周延儒と並んで当時の美少年として知られた。
万暦41年︵1613年︶、18歳のとき科挙に合格して進士に及第し、庶吉士になった。のち、翰林院検討に進んだ。翰林院の同僚で50歳過ぎの繆昌期に強犯され、仇同士になった。天啓元年︵1621年︶、後金軍が遼陽を占領した際、東林党の官員らは遼兵備道の馮盛明の責任に帰し、馮盛明は投獄された。馮銓は多くの同僚らに助けを求めたが、ひとしきり皮肉られた。やむなく馮銓は魏忠賢にひざまずいて助けを請い、同情を得た。馮盛明に対して赦免が与えられたので、馮銓は以後魏忠賢に誠心誠意尽くした。
天啓5年︵1625年︶、馮銓の策謀で熊廷弼が処刑された。同年、礼部左侍郎と東閣大学士に上り、国政に参与した。しかし崔呈秀とそりが合わず、排撃を受け翌年に免職された。馮銓は少しも恨み言を言わなかった。崇禎元年︵1628年︶、魏忠賢に連座し、懲役3年の判決を下された。
順治元年︵1644年︶、摂政王ドルゴンの招請に応じて、清の大学士になった。1645年︵順治2年︶5月、馮銓を総裁として﹃明史﹄を編纂するために明史館が設置された。のち、﹃清太宗実録﹄の編輯となり、太傅と太子太保に上った。順治8年︵1651年︶、ドルゴン死後のドルゴン派失脚に連座して帰郷したが、順治12年︵1655年︶に太師に上った。翌年、定年退職した。康熙11年︵1672年︶11月、病没した。文敏と諡された。
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