高田休廣
高田 休廣︵たかだ やすひろ[注 1]、1895年5月25日 - 1942年1月5日[1]︶は、昭和前期日本の官僚。高田 耕甫︵たかだ こうほ︶の筆名により﹁東京市歌﹂を作詞したことで知られる。山形県米沢市出身。
経歴[編集]
1895年︵明治28年︶、元会津藩士・高田休烈の五男として山形県米沢市に生まれる[2]。 三兄は裁判官で、静岡地方裁判所浜松支部長等を歴任した高田豊[2]。 1921年︵大正10年︶、東京帝国大学英法科を卒業し東京府庁に入庁。1923年︵大正12年︶、東京市懸賞公募の﹁東京市歌﹂︵作曲‥山田耕筰︶で応募作が一等入選となるが、石川県警察部に出向していたため不在であった[3]。 関東大震災の後に帰京、文部省に入省し学務局農業教育課長、社会教育局青年教育課長、資源局官房文書課長、宗教局長、督学官等を歴任する[2]。1938年︵昭和13年︶に文部省を退官した後、1941年︵昭和16年︶に長崎高等商業学校の校長となるが1942年︵昭和17年︶1月5日に現地で急逝した[4]。享年48︵満46歳没︶。1月7日付の贈位により、従四位に叙せられる[1]。墓所は多磨霊園(21-1-6)著作[編集]
- 教育行政(自治行政叢書・第14巻。常磐書房、1934年) NCID BB1273769X - 小笠原豊光との共著。
参考文献[編集]
- 人事興信所 編『人事興信録』第13版下(1941年)
- 高西直樹『長崎を訪れた人々 昭和篇』(葦書房、1995年) ISBN 4-7512-0592-7
出典・脚注[編集]
出典[編集]
注釈[編集]
- ^ 『東京のうた その心をもとめて』(朝日新聞社、1968年)p129では名前の読みを「よしひろ」としているが、存命時の東京朝日新聞記事では「やすひろ」と振り仮名が打たれているので本記事では後者に従う。
外部リンク[編集]
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