黒田慶太郎
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黒田 慶太郎︵くろだ けいたろう、明治15年︵1882年︶2月 - 没年不明︶は、日本の実業家。中国にあった日系紡績会社、上海紡織︵シャンボウ︶の代表取締役会長として戦前の上海に暮らした[1]。
明仁上皇の女婿・黒田慶樹の祖父。
経歴[編集]
大阪府堺市出身。黒田吉三郎の長男[2]。 明治37年︵1904年︶東京高等商業学校︵現・一橋大学︶卒業[3]。三井物産会社勤務を経て上海紡織に転じる[3]。 終戦と同時に上海紡織はなくなり、黒田一家は日本へ引き揚げた[1]。人物像[編集]
黒田について﹃第五版 財界人物選集﹄︵1939年、560頁︶には、﹁在華紡織界の指導的人材として知らる﹂とある。家族・親族[編集]
黒田家[編集]
- 妻・チカ子(多賀武次郎の長女[3]) - 明治28年(1895年)生[3] - 没
- 長男・慶一郎(実業家) - トヨタ自動車販売の常務を経て日本ケミカル工業会長となった[1]。
- 二男・慶次郎(トヨタ自動車に勤務[1])
- 長女・徳子は子爵税所家に嫁ぐ[1]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『第五版 財界人物選集』(1939年、560頁)
- 『文藝春秋』(2005年、新年特別号、94-103頁)