Wikipedia‐ノート:独自研究は載せない/過去ログ6
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広報の周知[編集]
Project:独自研究は載せないが日本語版で公式の方針と位置づけられてからすでに1週間以上が経過していますが、ノートページではとくにサブカル系などで、まだこの方針が浸透していないと感じることがあります︵投稿者が自分独自の考察を載せようとするなど︶。
ウィキペディアの根本方針のひとつですし、もう少し広報を徹底したほうがいいのではないかと思います。サイトノーティス(MediaWiki:Sitenotice]︶を使うことなども視野にいれてはどうでしょうか。--Aphaia 2007年5月3日 (木) 11:56 (UTC)
サブカル系はそもそも﹁信頼すべき典拠﹂と言えるもの自体が希少であるため、方針の浸透はかなり困難なように思います。とくに作品別解説などでは当該作品しか典拠がない、まとまって文字化された評価が2ちゃんねるしかないという例も見受けられます。このことから、サブカル系は当該方針を念頭に置きつつもしばらく熟成の時間が必要かと考えます。﹁典拠がないから記事自体削除﹂という考え方もあるとは思いますが、記事の執筆を萎縮させる方が有害かと考えます。--211.18.98.52 2007年5月5日 (土) 04:43 (UTC)
いや、そうじゃない。出典が﹁原著作﹂しか無いとしても、その実在すら確認が困難なものは、やはり排除されてゆくべきでしょう。またあまりにマイナーで公知されているとはとても呼べないもの︵コミケの自費出版本など︶は﹁百科事典として掲載に値するか﹂という観点から批評されるべきです。--125.205.8.21 2007年5月5日 (土) 05:54 (UTC)
サブカル系に限らず、作品の現物が突出して有力な資料になっている場合、周辺事項にも言及しなければ単なるあらすじかネタバレにしかならなくなってしまうと思います。問題は、そこに言及する場合に独自研究に陥る虞があるという事だと思います。極力、作品に言及した評判の良い出版社による資料の出典を示し、特定の観点を後押しするような典拠の合成を避けるという事で、少しずつ方針の浸透を図っていく事が大事だと思います。特に、方針を盾にとった﹁消し荒らし﹂を利するような事はあってはいけないと思います。--古鳥羽護 2007年5月5日 (土) 06:17 (UTC)
難しい問題ですが,日本マンガ学会のような査読つき学会誌を出している学会もありますし,﹁新現実﹂のような批評誌もあることですから,レビューを発表したいなら,適切な媒体に投稿するのが筋ではないでしょうか。アマチュア,プロを問わず,研究を発表する場ではない,というのが本方針です。--Isorhiza 2007年5月5日 (土) 10:18 (UTC)
レビューには主観も含めて書き手からの評価が入りますから、POVとして百科事典的ではないのは確かです。問題は、評判の良いメディアを通じて一般に流通しているものが、作品そのものと、作者のインタビュー等を掲載している公式ファンブックや専門雑誌などに限られている場合︵大手新聞の記事になるほど有名でも、そうした新聞記事から得られる情報が百科事典の記事としての質や量を満たす事はないでしょう。︶です。それらを注意深く読んだり視たりした事で知った事実から作品を説明する上で有用な事実を抽出して記事に反映する作業を、無条件に﹁独自研究﹂と見なすのは乱暴ではないかと思います。作品の舞台裏を勝手に想像して書いたりすれば、それは独自研究でしょうけど、記事を書き起こす為に、作品そのものを注意深く視たり読んだりしただけでは、独自研究とは言えないでしょう。単に正確性を高めようと努力したに過ぎないわけですから。
サブカル系作品に限らず、通俗的な事象の中には、項目にするに値する程の知名度がありながら、査読つき学会誌には載っていない様な事柄は沢山存在します。故にこそ、﹁評判の良いメディアを通じて一般に流通している事﹂もまた﹁検証可能性﹂として一つの柱にしているのではないのでしょうか? 投稿者がその人の頭の中だけにあって検証不可能な自分独自の考察を載せない様に、﹁独自研究は載せない﹂という方針を周知する事には賛成しますが、﹁独自研究は載せない﹂を、サブカル系項目の記事が冗長になる事への歯止めとして唱える事には賛成できません。確かに、﹁○○の登場人物一覧﹂が乱立したりする現状は問題だと思いますが、それは独自研究だからではなくて、記事としてのまとまりを考えて居なかったり、瑣末な事を取り上げてしまう事が問題なのです。--古鳥羽護 2007年5月5日 (土) 17:47 (UTC) 文章の区切りのおかしな処を修正。古鳥羽護 2007年5月6日 (日) 17:00 (UTC)
○○の登場人物一覧を﹁独自研究は載せない﹂という理由で消去してしまうとなると、たとえば﹁よつばと!﹂のようなマンガ内にキャラクター紹介の掲載がないマンガの場合、一切のキャラクター紹介ができなくなってしまうような気がします。ですから、○○の登場人物一覧に関しては行き過ぎない程度で黙認するしかないような気がするのですがどうでしょうか?
--Yamagashi 2007年9月25日 (火) 03:31 (UTC)
ほかの信頼に足る資料において誰もキャラクター紹介をしていないなら、Wikipediaが最初にそれをやらなければいけない理由は無いと思います。。古鳥羽護 さんの表現を借りるなら、﹁項目にするに値する程の知名度﹂が無いということになるでしょう。
Wikipediaの執筆者は基本的に素人ですから、﹁信頼に足る資料に準拠しない記述﹂=﹁素人のたわごと﹂である可能性が否定できません。そうでない可能性もあるかもしれませんが、そこのところを素人同士が﹁信頼に足る資料﹂に準拠せずに議論しても、しょせんは素人の議論ですから、正しい結論がでるとは期待しにくいと思います。
ただし、サブカル系記事の出典として査読済学会誌のような学術資料を要求するのは現実的でないので、﹁信頼に足る資料﹂は、かなり広めに捉える必要はあるでしょう。--Dwy 2007年9月25日 (火) 04:10 (UTC)
ウィキペディアは図書館にある資料で検証できることが前提になっているために、サブカルチャーのようなマスコミが取り上げにくい分野は不利だと思います。先日削除されたアニメ離れのように最近はインターネット上で話題になることが多く、紙媒体のマスメディアでは追いつかないのです。だからこそJ-CASTや市民ジャーナリズムのようにインターネットに対応していて素早く対応できるマスメディアが育ってほしいのですけどね。G7gh8t 2007年10月23日 (火) 11:34 (UTC)
「評判の良い」について[編集]
話をぶった切って基本的な質問で悪いのですが、﹁評判の良い﹂の定義が曖昧に過ぎませんか? 特に日本においては、
もしあなたが資料として利用しようとしている媒体が、あなたについて否定的な記事を掲載しようとしていると聞いた場合、あなたは︵a︶事実をちゃんと確認しない無責任な媒体だからと怯えるでしょうか、それとも︵b︶その媒体は何層もの編集スタッフ、事実調査員、弁護士、編集長などを抱えているから、たいていの誤りは訂正してくれるだろうと少しは安心するでしょうか。もし︵a︶であるなら、その資料は使用しないでください。もし︵b︶であるなら、それこそがウィキペディアで言うところの﹁評判のいい﹂というものなのです。
この(b)に当てはまるメディアってないんじゃないでしょうか。
最大手の新聞、朝日新聞に﹁あなたに関する否定的な記事が載りそうです﹂という情報を聞いて、脅えない日本人がいますか。私は脅えます(笑)。︵むしろ東スポなどのほうが笑い飛ばせる気が……いやいや︶pao 2007年6月4日 (月) 07:40 (UTC)
あまりにもそうです。社会問題など、思想などが絡むもの、出資者がいて利害が絡むもの、個人的な主義主張に過ぎないが一般人が何も考えず﹁神様﹂のようにあがめてしまっている評論家のような人がいて、それがまったくの事実と信じ込んでいる例があります。これらを出典にするとかえって中立に問題が出てしまいます。尼崎列車脱線事故のマスコミ報道でも川島令三が発言していて、著書も出したが、少々知識のある人なら彼が相当信憑性のない人間であることが言われて、鉄道ファンのブログでも批判されていますがまったく知識のない視聴者は信じ込むものです。冷やし中華で美味しんぼでの評価を書いてありました。しかし﹁中国にない料理法﹂ではあっても、単に作者の雁屋哲が認めないだけなんですよね。宮城県の郷土料理として定着している事実は冷やし中華を好まない評論家がぶったぎってもつぶせないはずですが、有名人が発言した=間違った料理、と決め付ける内容です。
﹁朝日新聞に書いてあった﹂としても、他の新聞が同じか黙殺した例があります。新聞やメディアが取りあげない社会問題も多いですね。記事にある押し紙や偏向報道という社会問題自体はマスコミの記事にもなりません。
社会問題など、黙殺したり特定の主義の報道が並べば検証しようもない、おかしいが批判もない記事が並んで、中立性と出典でもめます。出典があってもそれが正しいか、意見が対立しているのに特定の意見しか公にならない例はどうするのかって、昔から問題なのに、Wikipedia内で議論を何度も出しているのに、答える人がいない。﹁参加するな﹂などと言われることすらあります。
出典でもpaoさんのおっしゃる(b)のような人かどうか調べようもないし、裁判官のように中立で権威のある人が裁定するわけでもないのが社会問題の記事がもめる理由ではないでしょうか。信じ込めばそれっきりでは百科事典ではないような気がします。--たぬき 2007年6月4日 (月) 08:34 (UTC)
真実と﹁真実らしきもの﹂の差だと思います。Wikipediaは﹁真実らしきもの﹂をコレクションするのであって真実が追求される場所ではない。ここが非常に難しくて、またWikipediaの限界点である。議論あるテーマについては、出典の'評判'の良し悪しについてかならず論争が起こるし、その結論を下す機能・権能はWikipediaには用意されていない︵査読機関や判定委員会のようなもの︶。﹁評判の良い﹂はアイマイだと仰るが、﹁評判の良い﹂は非常に工夫された、良い語法選択だと考えます。論争が起こるのが良いのではないか?論争は素晴らしい。--58.95.142.253 2007年6月4日 (月) 10:50 (UTC)
58.95.142.253 さん、違います。逆です。
今のウィキペディアの方針に則ると、何も書けなくなります。新聞やテレビなど、日本の全てのメディアは﹁評判の良いメディア﹂ではない︵と定義されている︶からです。
論争が起こるべきだというなら、﹁評判の良い﹂ではなく、より中立的な──あるいは、より誤解を招かない、定義をすべきです。
﹁評判の良い﹂=﹁内部に査読機関などがあり、その情報は謬っていないことが期待される﹂という定義︵上記引用は定義とされています︶なのですから、﹁評判の良い﹂という日本語は誤っています。
……と、ここまで書いてから英語版を確認してみましたが、現時点の版では﹁評判のいい﹂に当たる表記はないようです。そもそもこの限定は必要なんでしょうか?pao 2007年6月4日 (月) 22:56 (UTC)
これには、いくつかの問題がからんでいますが、一つは現在の日本語版は英語版のかなり昔の翻訳と新しい翻訳を混ぜているので、いま英語版にはない記述も含まれています。また、英語版はいまそうとう激しく動いているので、なかなかいいところを取り入れるのも難しい状況でもあります。信頼できる︵もしくは評判のいい︶資料が何か、という問題は、en:WIkipedia:Reliable sourcesやen:Wikipedia:Attribution/FAQに分散している状態です。それから、言葉の選択と訳語の問題があります。一応、信頼できるはreliable、評判のいいはreputableの翻訳となっているはずですが、なかなか使い分けが曖昧です。おそらく、reputableを使う人は、reliableにくらべて、reputableの方が客観的に評価できるということでそうしているのではないかと推測しますが…… いずれにせよ、ご指摘の部分が今の英語版にないのは、この部分がかえって分かりにくく、あまり現実的な指針ではないのと、それに代るreliable/reputable sourcesの判断基準となるガイドがいちおうあるからだと思います。もしPaokaoruさんが先頭に立って、もっとわかりやすい指針を作成してくだされば、とてもよいと思います。
ただ、この定義によれば日本の全てのメディアは﹁評判のよいメディア﹂ではないと定義されている、ととるのは、どうでしょう。一応、大手新聞社は記者、編集部、校正部などを備えていることにはなっていると思うのですが。一方、きちんと機能していないからないも同然だ、ということであれば、そういう見方もありえると思いますし、世間一般の評価がそうであるのであるならば、その媒体を情報源として用いることは、ウィキメディア財団の方針に反するでしょうね。方針のほうを変えて現状に合わせるのは違うと思います。--Aotake 2007年6月5日 (火) 02:03 (UTC)
悪評があることをもって﹁評判が良くない﹂と位置づけると、すべての報道機関は﹁評判が良くない﹂ことになりますね。報道機関を一個の有機体と解釈するのではなく、﹁ある報道機関のこの方面の記事・この記者の記事﹂の各々について評判の良し悪しを解釈すれば宜しいのではなかろうか?朝日新聞や赤旗は過去に多くのスクープをものにしていますし、産経や読売は世論形成や批評に定評があります。いずれも悪評の高い報道機関ですが。難しいのはWikipediaに取り上げるセンス︵感性︶が常に問われる事でしょう。数学的な論理性をもって'権威'や'信頼'を集合化し、それに反しないよう機械的な編集をおこなう、といった立場は取れない。泥くさく遣るしか無いのではないか?--58.95.142.253 2007年6月5日 (火) 02:26 (UTC)
要は、﹁世間から誤った情報が載らないと信頼されている﹂ということを﹁評判のいい/reputable﹂と定義しているということだと思いますが、今の日本のメディアでそう評されているところは存在するでしょうか?
確かに﹁○○新聞に載っていたのだから﹂ということで誤っていないというお墨付きと考える層が存在するのも事実ですが、そうでない層もまた間違いなく存在します。
私はむしろ、︵両論存在する︶あらゆる記述に情報源の記載をする、という方針のほうが望ましいと考えます。それが﹁○○学会誌○年○月号によると﹂でも、﹁○年○月○日の夕刊フジによると﹂でも、﹁○年○月○日放送の○○という番組によると﹂でも、﹁○年に○○が発行した○○という同人誌によると﹂でも、あるいは﹁○○というブログの○年○月○日の記事によると﹂であってさえ構わないと考えます。検証可能である必要はありますが、それ以上の判断をWikipedia︵あるいは編集者︶がするべきではないのではないかと。
まあ上記はさすがに極論ですが、信頼性/reliabilityや評判/reputationに関する評価はある程度読者に委ねる形にすべきなのではないかと考えます。pao 2007年6月5日 (火) 07:36 (UTC)
︵上記発言を発言順に入れ替えさせていただきました。︶Paokaoruさんのおっしゃっていることは、むしろWikipedia:出典を明記するに関わる問題ですね。もちろん、基本的にあらゆる記述に情報源を記載するのが望ましいですし、ウィキペディアでもそれを推奨しています。﹁独自研究は載せない﹂の﹁評判のいい資料﹂の論点は、そもそも出典として用いるに堪える資料はなにか、という問題です。日本の大手メディアに対していくら批判があろうとも、現段階では、大手メディアに報道・掲載された情報は、一般的にウィキペディアの資料として使用できるでしょうし、加筆者が大手メディアの発行物を出典としている場合には、その情報は﹁独自研究﹂にはあたらないと判断してよいと思います。もちろん、大手メディアの情報が信頼できない場合もありえますから、58.95.142.253さんもおっしゃるように、ケースバイケースの判断が必要ですし、原則として信頼できる情報とみなすということです。--Aotake 2007年6月5日 (火) 13:09 (UTC)
ですから、﹁評判のいい﹂という条件は必要なのか、ということです。﹁評判のいい﹂……というかぶっちゃけ普通に訳せば﹁一流の﹂ですよね、reputableって……メディアであるかどうかによって、何か判断することができるのでしょうか? ﹁原則として﹂という表記が突然出てきましたが、それではポリシーとして相応しくないでしょう。YESorNO がはっきりしないなら、ポリシーとして入れるべきではないと考えます。なぜなら、論争になったときに﹁しかしポリシーではこう書かれている﹂という論拠にできないからです。ケースバイケースの判断が必要であるなら、reputableという条件はあってもなくても同じことです。﹁要出典﹂マークアップと同レベルの﹁評判が悪い﹂というマークアップがあったとしても、それは誰にでも受け入れられるものにはならないでしょう。無駄な論争を防ぐ役に立たない︵どころか論争の火種になる──﹁朝日新聞は評判がいいメディアだ﹂﹁いや捏造もあるしソースに使うべきでない﹂︶のであれば、このポリシーは単に繁雑になるだけで不必要なのではないでしょうか。pao 2007年6月5日 (火) 15:02 (UTC)
うーん。﹁評判のいい﹂あるいは﹁信頼できる﹂という縛りはやはり必要だと思います。この規定はそもそも、トンデモ本を出典としてトンデモ理論について加筆して、﹁出典があるのだから独自の研究ではない﹂と主張すること、更には、自分の主張するトンデモをウィキペディアに載せるために、自費出版や自作ホームページで主張を発表し、それを出典として使用することを排除するためにあります。また、﹁記事﹂と訳してあるために誤解を招くのかもしれませんが、問題になさっている部分の記述は、いわゆる﹁メディア﹂だけを対象にしているのではなく、情報を発信するあらゆる媒体を対象としています。
﹁原則として﹂というのは、突然出てきたわけではありません。本文中にも﹁一般的に、最も信頼できる資料は…﹂などと書かれています。﹁何が基準にあった、あるいは評判のいい資料となるかについて論争や議論が生じる場合があります。論争が起こった際には、より多くの編集者を集め、合意形成を目指して努力するしかありません。﹂とも書かれています。﹁査読制度のある定期刊行物、大学の出版部によって出版されている書籍や学術誌、主流の新聞、著名な出版社によって出版されている雑誌や学術誌﹂は一般的に最も信頼度の高い、﹁評判のいい﹂情報源と見なされますが、分野によってはそうとは限らない場合もあるわけで、柔軟な判断が必要だ、ということを方針は述べています。
ですが、上でも触れたように﹁評判のいい﹂はわかりにくい面もありますから、例えば﹁評判のいい﹂の部分を﹁信頼できる﹂に置き換えるというなら反対はしません。また、現行の文に問題を感じられるのであれば、具体的な方針の文案を提示していただければ、議論しやすいのではないかと思いますので、改めて、Paokaoruさんには改善案を具体的にご提示いただければと思いますが、いかがでしょうか。--Aotake 2007年6月5日 (火) 15:59 (UTC)
んーと、どうも話の論点が絞られてないというか、途中から発散していってるように見えます。問題点と思われるものはいくつか挙がっていて、
(一)﹁評判のいい情報源﹂の解説文︵paoさんは﹁定義﹂と表現していますが︶に問題があるのではないか?
(二)﹁reputable﹂を﹁評判のいい﹂と訳しているが、﹁評判のいい﹂という語は、解釈が分かれやすいので、問題になるのではないか。
(三)マスメディア批判︵そもそも﹁新聞等のメディアを﹃信頼できる情報源﹄と認められるのか︶
(四)上記3の観点から、﹁信頼できる﹂や﹁評判のいい﹂という縛りそのものが無用だという主張
こんなところかと思います。
そもそものpaoさんの主張は︵途中から3や4にシフトしていってますが︶1のものであったように思われます。つまり、﹁(A) 大手の新聞などのメディアは、ウィキペディアにおいて通常﹃信頼できる情報源﹄として認められてしかるべきなのではないか? (B)それなのに、解説文の﹃定義﹄には当てはまっていないではないか﹂という指摘ですね。で、その指摘︵AとBの矛盾︶は、解釈の問題があるとは言え、意味のあるものだろうと思います。ところが、paoさん自身がこの矛盾を解消するために、Aを変えるべきという考えなのか、Bを変えるべきという考えなのかを示さなかったため、その指摘に対する回答がいろいろと迷走してる状況なのだと思います。
で、結局のところ、最終的にpaoさんの主張は﹁Aを変えるべき﹂という方向にシフトしていってるわけですけど、その主張について、ウィキペディアが認めることはまずないでしょうし、私もその主張には反対の立場を取ります。その根拠は上でAotakeさんが述べておられるものとほとんど同じ繰り返しになりますので割愛しますが。ただし一方で、paoさんの最初の指摘自体は有意義なものであったと私は思います。つまり、現在の解説文が判りにくいものになっているため、﹁AとBの矛盾﹂と解釈する人が現れているのではないか、と。また議論の途中で上がった﹁reputable﹂の訳語問題についても、一考の余地があると思いますので。
解説文については、可能であれば、﹁新聞などのメディアは、一般に﹃信頼できる情報源﹄と見なされている﹂﹁︵マイナーな︶個人ブログはそう見なされない﹂という条件を満たすようなものに変えていくことを考える価値があるかもしれないと思います。かなり難しそうなので、いろんな案を出し合った上での、時間のかかる作業になりそうですが。
もう一方の﹁reputable﹂の訳語についてですが、﹁reliable = 信頼できる﹂と使い分けるという方向性にはやはり魅力がありますので……少し意味がずれるかもしれませんが﹁定評のある =established reputation﹂あたりはどうでしょうか? ﹁評判の良い﹂という訳語の﹁良い﹂が、特にメディア批判的な考えの持ち主の反発を招いて問題を生じてるのではないかと思いますから、それを外すことで表現が柔らかくなるかと。reputationも﹁定評﹂も、特に断りがない場合には、暗黙的に﹁良い評価﹂という含意がありますが、bad reputationや﹁悪い定評﹂という使い方もありうる語だと言う点では似てるような気が。--Y tambe 2007年6月6日 (水) 13:33 (UTC)
「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」について[編集]
﹁特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成﹂の例として、現在、ゴンリの例とガガガガーの例が掲載されています。私の見るところ、これらはいずれも﹁一見もっともらしい記述だが、実は論理に欠陥があるので、こういうのは書いてはいけない﹂という言い方になっているようです。しかし、論理の進め方に間違いがある記述が許されないのは当然のことですし、それは必ずしも﹁独自の研究﹂の問題ではないように思います。ゴンリやガガガガーの例は、少しピントがずれているのではないでしょうか。
おそらく、本来ここで言いたかったのは、﹁論理的に正しい合成であっても、その合成が﹃特定の観点を推進するような﹄ものである場合は、書いてはいけないことにする﹂ということだろうと思います。そこで私の考えた例ですが、
(一)他国に対して侵略戦争を起こすことは国際法上の犯罪であり、その国の政策責任者は刑事責任を免れない。︵出典‥佐藤教授︶
(二)A国は周辺諸国に対して侵略戦争を起こした。︵出典‥鈴木教授︶
(三)従って、A国の政策責任者は、刑事責任を免れない。︵直接の出典なし︶
論理展開には多分問題となるところはないはずで、1、2が正しければ必ず3も正しいことになると思います。しかし、ここで注意すべきなのは、﹁A国の政策責任者は刑事責任を免れない﹂と言っているのは佐藤教授でも鈴木教授でもないことです。たとえば、佐藤教授は﹁A国の戦争行為は自衛戦争だった﹂という意見かもしれませんし、鈴木教授は﹁侵略戦争を指導した政治家の刑事責任を問うのは確立した国際法のルールとはいえない﹂という考えかもしれません。結局﹁A国の政策責任者は刑事責任を免れない﹂と言っているのは情報の合成を行った私であり、もし﹁A国の政策責任者は刑事責任を免れない﹂の結論に異議が出た場合は、特定の観点を推進するような合成ということになり、私の﹁独自の研究﹂とされるのだろうと思います。
以上が私の理解なのですが、皆さんはどのようにお考えか、コメントいただければ幸いです。--Dwy 2007年6月9日 (土) 11:00 (UTC)加筆修正--Dwy 2007年6月9日 (土) 14:33 (UTC)
どちらでもかわらないと思います。NORの規定は﹁論理的に正しい合成かどうか﹂を問題にせず、その情報に出典があるかどうかを問うことによって、独自の研究を排除し、さらには検証可能性を担保するのですから。出典がない部分が﹁論理的に正しいか否か﹂を持ちだすと、かなり主観に依存します。ガガガガーの例だって、人によっては論理的に正しい合成かもしれませんし、Dwyさんが示された侵略戦争の例だって、人によっては論理的に正しくないかもしれません。ただ単に、都合のいい情報を組み合わせてもっともらしくみせているだけです。であればこそ、﹁専門知識がなくても常識的に納得できる合成﹂は例外として認められているわけですよね。もっと微妙な例も追加した方がよい、というのであれば、それはそれで意義のある議論だと思いますが、ゴンリの例は、シカゴマニュアルの例がわかりにくいというところから発展して、とにかく分かりやすさを追求するなかで選ばれた例ですから、論理欠陥が目につきやすいような例が選ばれている点も尊重すべきだと思います。--Aotake 2007年6月9日 (土) 15:11 (UTC)
Dwyさん。そうじゃない。例に挙げられたのは非常にわかりやすくゴンリやガガガガーなどよりよっぽど適切だと考えますがw挙げられた例について、1と2は出典が確認でき、検証可能なためコレクションが可能なわけです。実在していると確認できる。しかし3については、そういった意見の実在が確認できない、ほんとうに世の中にそのような意見・解釈が存在しているのか検証しようがないわけです。百科事典は知のコレクションですから、実在が確認できない情報は記載するのはムリでしょう︵※フィクションという創作物は別・・・創作物の実在が確認できれば良い︶。また、投稿者個人の心情として1と2をもって3にまで言及したい気分は理解するにせよ、むしろ百科事典としては3こそ﹁読者﹂がWikipediaを読むことで﹁勝手に﹂獲得すればよいことで、そこまで踏み込んで記載しないからこそ百科事典︵コレクション︶に価値があると考えます。--58.95.142.253 2007年6月9日 (土) 16:24 (UTC)
Aotakeさんも﹁専門知識がなくても常識的に納得できる合成は例外として認められている﹂とおっしゃっているように、許容される合成があるわけです。Wikipedia:Attribution# 独自研究でないものとは何かでも﹁出典がはっきりしているデータに対しては、データの意味付けを変えたり、その典拠からだけでは導くことのできない推論などを加えたりしていなければ、単純な数学的計算や、論理的演繹を行うことは可能です﹂と言っています。そこで、単純な論理的演繹として許される合成と、﹁独自の研究﹂として排除される合成とを区別しなければいけませんが、そのための助けになるような例が必要ではないかと思ったわけです。︵ゴンリやガガガガ-の例の説明だと、論理的に欠陥があるのが﹁独自の研究﹂だということになりかねませんが、そうではないですよね?︶
例えば、上の侵略戦争の例とよく似た理論展開として、次のような例が考えられます。
●人を殺したものは殺人犯である。︵出典あり︶
●Aは人を殺した。︵出典あり︶
●Aは殺人犯である。︵直接の出典なし︶
余程こんがらがった事件でない限り、この例なら﹁単純な論理的演繹﹂として許容されるのではないかと私は思います。そうだとするなら、上で﹁独自の研究﹂の例として挙げた侵略戦争のケースとの違いは、何でしょうか?結局、特定の観点を推進しているかどうか、換言すれば、異議が出る可能性がある結論を述べたものであるかどうか、ではないかと私は思います。間違ってますでしょうか?--Dwy 2007年6月9日 (土) 21:42 (UTC)
ああ、難しいですねえ。私は論理学は本当に苦手なので、議論に加わるのは心苦しいのですが…… 申し訳ないのですが、こんな私でもわかるように、表の例にあって、Dwyさんの例にはない﹁論理欠陥﹂についてもうすこし具体的に説明いただけますか。
その間に、私の方はもう一度話を整理して、大元の英語版の方針で述べていることを確認してみましょう︵英語版が絶対というわけではもちろんありませんが︶。英語版のシカゴマニュアルの例というのは、
●ジョーンズは文献表を他の本から丸写しするという剽窃をした︵出典‥スミス︶
●ジョーンズは他者の文献表を利用することは適切なことで、剽窃にはあたらないと主張した︵出典‥ジョーンズ︶
●ジョーンズが他者の文献表を転載し、原典にあたっていないのならば、﹃シカゴマニュアル﹄が奨める﹁引用には直接参照した文献のみを使用する﹂という慣行に反するものの、﹃シカゴマニュアル﹄はこれを﹁剽窃﹂とはいっていない。﹁剽窃﹂とは出典を述べずに他者の情報、アイディア、文言などを使用することとされている。︵出典‥シカゴ・マニュアル・オブ・スタイル︶
というものでした。ここで問題となっているのは、﹃シカゴマニュアル﹄を持ちだすことで、ウィキペディアの加筆者自身が﹁ジョーンズの行為は剽窃ではない﹂という主張を書きこんでいること、読者に対して﹁ジョーンズの行為は剽窃ではない﹂という印象を与えようとしていることです。
したがって、Dwyさんの2つめの例でも、﹁Aは人を殺した﹂という文章の次に、﹁人を殺したものは殺人犯である﹂という文章を与えること自体がすでに、﹁特定の観点を推進する発表済みの情報の合成﹂にあたるのです。このとき、﹁特定の観点を推進する﹂︵advance a position︶というのは、もちろん議論のある話題について特定の立場に有利/不利な印象を与えるようなことを念頭に置いてはいますが、何に議論があるかということ自体不確定なわけで、﹁何かの結論を誘導している﹂時点でファールラインぎりぎり外なのだと思われます。NORで許している﹁単純な論理的演繹﹂というのは、Wikipedia:Attributionの方で例示されていますが、﹁例えば、とある出版された書籍に、とある選挙における候補者ごとの得票数が示されていた時に、得票数に加えて得票率を示すこと︵全ての得票数が同じ資料に拠っており、得票率の計算が簡単な計算式に拠っている場合に限る︶﹂というようなレベルです。
ですので、Dwyさんの2つの例はどちらもやはり、﹁単純な論理的演繹﹂ではなく、したがって﹁その記事の主題に関連する形で信頼できる情報源によって既に発表されている﹂情報が必要なのではないかと思いますが、いかがでしょうか。--Aotake 2007年6月10日 (日) 01:33 (UTC)
ゴンリの例の元になったノートの議論を読んでいただくと判るかと思いますが、この例で﹁論理の矛盾﹂を指摘しているのは、Aotakeさんも言っているように、﹁誰にでも問題点が判る﹂ということを重視して例示しているからあって、例えばゴンリの例も﹁ある観点からの見方のみを推進する﹂意見に他ならないんです。また、Aotakeさんも上で言っておられるように、Dwyさんの2つの例はどちらも﹁単純な論理的演繹﹂とは呼べないものだと、私も考えます。
その上で﹁ある観点からの見方のみを推進しているかどうか﹂という表現を、この独自研究方針の判断基準として、大きく掲示することには反対します。せいぜい各論の一つとして小さなセクション内で掲示するにとどめるべきでしょう。主な理由は二つあります。
まず一つ目の理由として、﹁ある観点からの見方のみを推進しているか﹂を判断するためには、専門知識が必要になる場合があります。上の﹁ゴンリ﹂の例は、初心者向けとして、そもそもわざと手加減した例を挙げていますが、このようなのは序の口です。例えば
(一)Beclin1はオートファジーを制御するタンパク質であり、栄養枯渇などのストレスシグナルを受けてオートファジーを誘導する︵出典A︶。
(二)オートファジーは、細胞が栄養飢餓状態下でも生存することに有利に働く︵出典B︶。
(三)がんの組織内部では栄養の枯渇した高ストレス環境下になり、がん細胞の壊死がおきる︵出典C︶。
(四)この機構によって、Beclin1はオートファジー誘導を介したがん細胞の細胞死の抑制により、腫瘍形成を促進する︵合成文︶
なんて文章があったとして、この真偽を見破ることができる人がどれくらいいるでしょうか? 専門分野において、オートファジーががんに抑制的に働くか促進的に働くかは、実はまだ"controversial"︵議論の余地がある見解︶です︵ただし、実はBeclin1はがん抑制遺伝子産物であることが判っていますので、上の例は明らかに﹁ウソ﹂のものとして出してます︶。しかし、専門外の人であれば、そもそもオートファジーとがんの関係について、controversialであることすら知らずに、ウソを鵜呑みにしてしまうでしょう。もし専門家による査読を品質管理システムとして採用しているのであれば、こういった問題点については解決することができます。しかしウィキペディアはそうではなくて、専門家が不在でもある程度の品質保証が可能になるように、﹁検証可能性+独自研究の排除﹂というシステムを採用しました。このシステム上では、﹁合成文に出典を求める﹂ことが、記述の信頼性を担保することにつながります。このシステムでは、この部分に例外が適用可能なものは、できるだけ少なくなるようにデフォルトを設定しておくこと、つまり﹁これは特定の見方を推進している文章かどうか﹂という議論抜きでも、指摘が可能にしておくことが望ましいでしょう。
また二つ目の理由として、﹁ある観点からの見方のみを推進しているか﹂というのは、極めて判断者の主観に左右されやすいものですので、それを到達点とする議論は収束することがありません。議論ってのは話をまとめるためにするものであって、そもそも﹁収束しない議論﹂を生むだけの文章を、このようなコアな方針のところに書くべきではないと考えます。
上の例であれば、私はその問題点を指摘することができますが、これが私が専門知識を持たない別の分野︵たとえば人文・社会科学や、天文物理学など︶のものについても、私のような素人が指摘しても問題点の改善につながるような品質管理のシステムが、今のウィキペディアが求めているものです。そしてそのとき﹁特定の観点からの見方のみを推進しているわけではないから﹂と反論されても、そのウソを論破するだけの専門知識がなくても大丈夫なように、﹁特定の観点からの見方を推進している﹂﹁してない﹂という水掛け論が始まらないように、そういう議論の流れに持って行かないようにしておくことが、この方針文書には求められるかと。
Dwyさんとは何件かの議論を重ねましたが、思うに﹁白黒はっきりつける﹂ことが如何に難しいかということについて、多少私やAotakeさんよりも甘めに考えてる、つまり﹁総合的にまとめて述べることくらいできるさ﹂と考えておられるのではないかなぁ、と感じます。多分、そこらへんから来る﹁見解の相違﹂があって、下位レイヤーで議論した方が揉め事が少なくなるグレイゾーンぎりぎりの内容を︵私などから見ると、とても無造作に︶上位レイヤーの方針にも載せようとするのかなあ、と。グレイゾーンの厄介さというのは、実際にいろんな記事を書き上げていかないと見えてこない部分というのがありますが、ともかく﹁全分野の事情を俯瞰的に見て、それぞれの事情を把握する﹂という、この手の﹁方針文書﹂のまとめに持ってくるには不備なことがありますね。ここらへんは私もあまりえらそうなことは言えないので、自戒をこめて。--Y tambe 2007年6月10日 (日) 03:11 (UTC)
●su-ge--!(;´Д`)--58.95.142.253 2007年6月10日 (日) 04:51 (UTC)
●Wikipedia:独自研究は載せない#何が除外されるかでは、﹁編集者が好む立場を支持するような形で、既存の事実、理念、意見、論証を分析・合成するような記述を、その記述の出典となる評判のいい資料を明記せずに加筆する﹂ことが﹁独自の研究﹂として排除されるとしています。この文言の反対解釈として、編集者が好む立場を支持するような形で行われるのでなければ。既存の事実、理念、意見、論証を分析・合成するような記述を、その記述の出典となる評判のいい資料を明記せずに加筆してよいという解釈が可能です。これは、あくまで既存の方針の︵私に言わせれば普通の︶解釈であって、新規の方針や方針の修正を提案しているわけではありません。
●Wikipediaにおいて許容される﹁単純な論理的演繹﹂を﹁特定の観点を推進するような﹂という条件と関連付けて論じることは、英語版での議論では既に出ていることで、私の新規の説ではありません。日本語版でも、上に引用したWikipedia:Attribution# 独自研究でないものとは何かに同様︵類似?︶の議論が出ています。
●許容される﹁単純な論理的演繹﹂というものが存在する以上、排除されるべき﹁独自の研究となる合成﹂との違いがどこにあるのか、できるだけ明確に示してやる必要があると思います。その点、現在のゴンリやガガガガーの例は﹁一見もっともらしく見えるが、実は論理的に正しくないから、排除されるべきだ﹂という説明をしているわけですが、これは若干不適切だと私は思います。﹁独自の研究となる合成﹂の例としては、論理的には非の打ち所がない合成であるが﹁独自の研究﹂に該当するから排除されねばならない、というような例を提示すべきだと思います。
●﹁AでありBである、ゆえにCである﹂という合成︵あるいは演繹︶について論理的な正しさを検証することは、﹁独自の研究﹂の方針と矛盾しません。﹁独自の研究﹂が禁じているのは、AやBの正しさを編集者自身が独自に検証しようとすることです。AとBが正しいと仮定したときに﹁A+B=C﹂という等式が本当に成立するかを検証することは、禁じられていません。Wikipedia:Attribution# 独自研究でないものとは何か︵および、その記述の元となった英語版のルール︶では、﹁A+B=C﹂の等式について、﹁専門知識を持たない読者にとっても理解できるものでなければなりません﹂としています。等式の正しさの判断は、読者に委ねられているわけです。
●ゴンリやガガガガーの例は﹁A+B=C﹂の等式が正しくない例だと思います。Y tambeさんのBeclin1の例は、1~3︵出典A~C︶の条件が正しいと仮定したときに、合成文4が論理的に成立するのかどうか、専門知識をもたない読者には理解できないと思います。したがって、これも﹁A+B=C﹂の正しさが確認できない例といえるでしょう。
●その点、私の考えた侵略戦争の例は、﹁A+B=C﹂の等式が論理的に正しくても、特定の観点を推進している場合には﹁独自の研究﹂として排除されるというのと言えるように、等式の正しさが専門知識がない人にも明らかなものを考えたつもりです。殺人犯の例は、﹁単純な論理的演繹﹂の例として考えたつもりだったのですが、これでもまだ﹁独自の研究﹂だろうということなので、もう少し言い方を変えてみます。
●殺人者とは、人を殺した者をいう。︵出典‥AA国語辞典︶
●甲は、人を殺した。︵出典‥BB新聞︶
●甲は、殺人者である。︵直接の出典なし︶
この程度の言換えも認めないなら、原典のコピペ以外はダメということになりますから、いくらなんでもこれなら﹁単純な論理的演繹﹂でしょう。後は、侵略戦争や殺人犯がダメで、殺人者がよいことになる説明ですが、私としては、﹁特定の観点を推進しているか=結論がcontroversialであるか﹂が基準ではないかと思います。
--Dwy 2007年6月10日 (日) 08:34 (UTC)
●第一文節の論理は前件否定の虚偽ってヤツですよ。﹁人間は死ぬ﹂﹁じゃあ人間じゃなけりゃ、死なないんだな!﹂←これ--58.95.142.253 2007年6月10日 (日) 09:13 (UTC) 前件否定というのは﹁XはYである。故にXではないならYではない﹂という論理だそうですが、私の第一文節の解釈は﹁XはAならばYである。故に、XはAでなければYではない︵ことがありうる︶﹂という理屈で、前件否定よりはもう少し複雑な論理だと思います。 ﹁XはAでなければYではない︵ことがありうる︶﹂が正しくないとすると﹁XはAでなければYである﹂ということになりますが、それなら最初から﹁XはYである﹂と言い切れば済むことです。わざわざ﹁Aならば﹂を入れて﹁XはAならばYである﹂と言った意味を説明しようとすると、どうしても﹁XはAならばYである。故に、XはAでなければYではない︵ことがありうる︶﹂という解釈になります。--Dwy 2007年6月10日 (日) 09:41 (UTC) ●﹁XはA﹂をZと置いてみれば、﹁ZならばYである﹂﹁じゃあZでなければYではないんだな!﹂で結局アレ、かと(;´Д`)--58.95.142.253 2007年6月10日 (日) 09:56 (UTC) 大体ですね。本文には﹁編集者が好む立場を支持するような形で﹂の合成を排除の対象とするとは書いていないのです。﹁自分の支持する観点を押し進めたり自分の提唱する論証や定義を支持するような形で発表済みの情報を解釈・合成するようなことも排除します﹂というくだりならありますが、これは方針によって得られる結果の話です。禁止されているのは﹁特定の観点を推進するような﹂合成です。編集者が支持しようが反対しようが﹃特定の観点﹄ではいけないのです。 -- NiKe 2007年6月10日 (日) 10:03 (UTC) ︵競合気にせず投稿︶えっと、殺人者の例は、アップルパイの例と同じですよね。侵略戦争や殺人犯の例とは質が違うのではないでしょうか。 私には依然として、Dwyさんがおっしゃる、ゴンリやガガガガーの例にはあって、侵略戦争の例にはない﹁論理の欠陥﹂がよくわかりません。本文でもゴンリの例もガガガガーの例も、別に論理の欠陥があるからだめだ、とはどこにも説明されていないと思うのですが︵ゴンリの例はどうしてだめなのかを理解してもらうための記述を加えているためにそういう印象をうけるのかもしれませんが︶。ウィキペディアで認めている﹁論理的に正しい合成﹂というのは、﹁だれがやっても同じ結論になる合成﹂というレベルだと思いますし、﹁合成によって特定の見解を支持する結論になる﹂場合は、﹁だれがやっても同じ結論になる合成﹂ではないのではないでしょうか。 ちなみに、何度もいっていると思いますが、もっと微妙な例がほしいのなら加えてもよいと思いますよ。ですが、侵略戦争の例でも、殺人犯の例でも、﹁論理的に正しい合成だけれども特定の観点を推しているから﹂という理由ではなくて、﹁出典なしになんらかの主張をしているから﹂という理由ですっきり排除されるのではないですか。どちらも、私にはゴンリの例と本質的には変わらなくみえるのですが、私は論理には弱いので、間違っているかもしれませんね。許容される合成の例がほしいのであれば、Attributionの得票率の例をもってきたらどうでしょうか。 どうでもいいことではありますが、Dwyさんの主張が新奇な主張ではないことは分かっていますが、失礼ながら、それだけを言ってどうなるのでしょう。それを持ちだすなら、せめてそこでの議論でどういう結論になったかを言わなければ、無意味では。--Aotake 2007年6月10日 (日) 10:18 (UTC) 私の言う﹁論理の欠陥﹂がよくわからないということなので、ゴンリの例で説明します。ゴンリの例では、 A: ゴンリという食材にはゴンリナーゼという成分が含まれている B: ゴンリナーゼには、がん細胞を殺す作用がある C: ゴンリを食べることはがんになるリスクを減少させる としたときに、ゴンリには発癌物質ゴンリペプチドが含まれている︵かもしれない︶から、AとBが正しくても、Cが成立しない︵可能性がある︶と言っています。そもそもA+B=Cが論理的に成立しない可能性があるなら、それは正しい合成とはいえません︵私が﹁論理の欠陥﹂と言っているのはこのことです︶。そして、正しく合成できていない事例を合成の例として提示するのは不適切だと思います。 一方、侵略戦争や殺人犯、殺人者の例では、AとBが正しいなら、Cも必ず正しいという論理関係になっているはずです︵そうなるように書いたつもりです︶。私は、これらはいずれも﹁誰がやっても同じ結論になる合成﹂だと思っています︵違う結論になりうるなら、ご指摘ください︶。 最後に、私がここで主張しているのは以下の2点です。 ●論理的に正しくない合成を独自の研究として排除されるべき合成の例として提示すると、論理的に正しい合成なら許容されるとの誤解を招くおそれがあるので、不適切である。︵これについては、上に書いたとおりです︶ ●許容される合成と許容されない合成の違いがわかるように、できるだけ限界事例に近い例を提示して、その違い・判断基準を説明すべきである。︵私としては、殺人者、殺人犯、侵略戦争の例を並べて、許容の是非の判断が分かれる理由︵=特定の観点を推しているから︶を説明すべきだと思っています。ちなみに、Aotakeさんのおっしゃる﹁出典なしになんらかの主張をしているから﹂という理由は、﹁出典なしに﹂と﹁何らかの主張をしているから﹂に分解できますが、﹁出典なしに﹂は殺人者も同じことですから理由になりません。﹁何らかの主張をしているから﹂なら﹁特定の観点を推しているから﹂と実質的には同じことを言っているのではないでしょうか。︶--Dwy 2007年6月10日 (日) 11:14 (UTC) 侵略戦争の例でも、殺人犯の例でも、その気になれば﹃論理的欠陥﹄を指摘できます。佐藤教授の言う﹁侵略戦争﹂は鈴木教授の言う﹁侵略戦争﹂より狭い範囲を指しているかもしれません。﹃人を殺したものは殺人犯﹄の出典と﹃Aは人を殺した﹄の出典とでは、﹃人を殺した﹄という言葉の指す範囲が違っているかもしれません。 -- NiKe 2007年6月10日 (日) 11:27 (UTC) そういうのは少し反則気味だと思いますし、言葉の意味が食い違っている場合は﹁論理的欠陥﹂とは言わないような気がします。いずれにしろ架空の例ですから、どうしてもとおっしゃるなら、例えば﹁侵略戦争﹂を﹁○○によって厳密に定義された意味での﹃侵略戦争﹄﹂等に言い換えることは問題なく可能です。--Dwy 2007年6月10日 (日) 11:46 (UTC) 新しく挙げられた﹁殺人者﹂の場合﹁A+B=C﹂は成り立ちますが、先に挙げた、殺人犯や侵略戦争の例は﹁A+B=Cが成り立つとは限らない﹂、明らかに﹁論理的に正しくない場合がある﹂例です。というか、その論理のほつれを詭弁として利用することで、それを﹁特定の観点の推進﹂に、いわば﹁悪用﹂できるというケースです。説明としては、﹁特定の観点の推進﹂ではなく、あくまで根っこの部分、つまり論理的に正しくないからという理由で、場合によって排除されるべきでしょう。それから、これは個人的な見解ですが、以前の﹁領土問題﹂の例や、﹁侵略戦争﹂を例示することは、特定の思想への偏りを連想させることから、いらぬ火種を招くリスクが高いものであるため、このような﹁方針文書﹂では、注意して使うことを避けるべきだと考えてます︵わざわざゴンリのような例を考え出したのも、そもそもはそれが動機です︶。そういった例をわざわざ使うことで、勘違いした人が議論をふっかけてきて、その都度に有能な参加者の時間と手間を奪うことになることは避けなければならないことだと考えています。--Y tambe 2007年6月10日 (日) 12:00 (UTC) 殺人犯や侵略戦争の例で﹁論理的に正しくない場合がある﹂というのが理解できません。どのような場合に論理的に正しくないのかご説明いただけないでしょうか?私としては、﹁A+B=C︵Aが真であり、Bが真であれば、Cも必ず真である︶﹂が完璧に成立していると思っています。︵もちろん、AやBが本当に真であるかどうかについては異論があるかもしれませんが、それについては信頼できる出典があると仮定した以上、とりあえずここでは議論しなくてよいと理解しています︶--Dwy 2007年6月10日 (日) 12:13 (UTC) ええと、たとえば、﹁侵略戦争﹂の例でいうと、佐藤教授の認識が正しいとされる範囲について、その﹁国際法﹂は、いつから、どの国の間で効力を持つか、政策責任者が指す人物に紛れはないか、といった部分には、解釈・運用の余地があります。A国の侵略戦争が、いつ起こったか、A国はどこの国か、といったことの検証がなければ、﹁従って、A国の政策責任者は、刑事責任を免れない﹂を、前の二つから単純に導くことはできないでしょう。殺人犯の方は、最初の﹁人を殺したものは殺人犯である。﹂は正確さに疑問がありますし、﹁Aは人を殺した。﹂もどういうレベルで認定されているかというのが確かではないので、例として分りにくくなっているように思いました。 (一)殺人犯とはこれこれこういうものである。︵出典あり︶ (二)Aは人を殺したことが認定されていて、上記の定義の及ぶ範囲から逸脱する要素は明らかに存在しない。︵出典あり︶ (三)Aは殺人犯である。︵直接の出典なし︶ となるならば、﹁単純な論理的演繹﹂となると思います。 それと、Dwy さんの意図としては、これが適当な例かどうかはともかく、たとえば、 (一)アインシュタインの重力場の方程式はこれこれである。︵出典あり︶ (二)これに必要な演算の方法はこれこれである。︵出典あり︶ (三)真空・球対称を仮定すると、以下の解が導かれる。
︵出典なし︶
みたいな例を加えよう、ということでよいでしょうか。
1.と2.から3.を導くのはそれなりに面倒ですが、不可能ではありません。解としては、正しい︵確認してないけど︶。これを、投稿者が計算したのであれば、独自研究になるはず。
この式自体は、いわゆるシュヴァルツシルト解というやつで、一般相対性理論関係の本を見ればいくらでも出てくる式ですから、出典を加えることは容易です。--Ks aka 98 2007年6月10日 (日) 12:25 (UTC)
●第一文節の論理は前件否定の虚偽ってヤツですよ。﹁人間は死ぬ﹂﹁じゃあ人間じゃなけりゃ、死なないんだな!﹂←これ--58.95.142.253 2007年6月10日 (日) 09:13 (UTC) 前件否定というのは﹁XはYである。故にXではないならYではない﹂という論理だそうですが、私の第一文節の解釈は﹁XはAならばYである。故に、XはAでなければYではない︵ことがありうる︶﹂という理屈で、前件否定よりはもう少し複雑な論理だと思います。 ﹁XはAでなければYではない︵ことがありうる︶﹂が正しくないとすると﹁XはAでなければYである﹂ということになりますが、それなら最初から﹁XはYである﹂と言い切れば済むことです。わざわざ﹁Aならば﹂を入れて﹁XはAならばYである﹂と言った意味を説明しようとすると、どうしても﹁XはAならばYである。故に、XはAでなければYではない︵ことがありうる︶﹂という解釈になります。--Dwy 2007年6月10日 (日) 09:41 (UTC) ●﹁XはA﹂をZと置いてみれば、﹁ZならばYである﹂﹁じゃあZでなければYではないんだな!﹂で結局アレ、かと(;´Д`)--58.95.142.253 2007年6月10日 (日) 09:56 (UTC) 大体ですね。本文には﹁編集者が好む立場を支持するような形で﹂の合成を排除の対象とするとは書いていないのです。﹁自分の支持する観点を押し進めたり自分の提唱する論証や定義を支持するような形で発表済みの情報を解釈・合成するようなことも排除します﹂というくだりならありますが、これは方針によって得られる結果の話です。禁止されているのは﹁特定の観点を推進するような﹂合成です。編集者が支持しようが反対しようが﹃特定の観点﹄ではいけないのです。 -- NiKe 2007年6月10日 (日) 10:03 (UTC) ︵競合気にせず投稿︶えっと、殺人者の例は、アップルパイの例と同じですよね。侵略戦争や殺人犯の例とは質が違うのではないでしょうか。 私には依然として、Dwyさんがおっしゃる、ゴンリやガガガガーの例にはあって、侵略戦争の例にはない﹁論理の欠陥﹂がよくわかりません。本文でもゴンリの例もガガガガーの例も、別に論理の欠陥があるからだめだ、とはどこにも説明されていないと思うのですが︵ゴンリの例はどうしてだめなのかを理解してもらうための記述を加えているためにそういう印象をうけるのかもしれませんが︶。ウィキペディアで認めている﹁論理的に正しい合成﹂というのは、﹁だれがやっても同じ結論になる合成﹂というレベルだと思いますし、﹁合成によって特定の見解を支持する結論になる﹂場合は、﹁だれがやっても同じ結論になる合成﹂ではないのではないでしょうか。 ちなみに、何度もいっていると思いますが、もっと微妙な例がほしいのなら加えてもよいと思いますよ。ですが、侵略戦争の例でも、殺人犯の例でも、﹁論理的に正しい合成だけれども特定の観点を推しているから﹂という理由ではなくて、﹁出典なしになんらかの主張をしているから﹂という理由ですっきり排除されるのではないですか。どちらも、私にはゴンリの例と本質的には変わらなくみえるのですが、私は論理には弱いので、間違っているかもしれませんね。許容される合成の例がほしいのであれば、Attributionの得票率の例をもってきたらどうでしょうか。 どうでもいいことではありますが、Dwyさんの主張が新奇な主張ではないことは分かっていますが、失礼ながら、それだけを言ってどうなるのでしょう。それを持ちだすなら、せめてそこでの議論でどういう結論になったかを言わなければ、無意味では。--Aotake 2007年6月10日 (日) 10:18 (UTC) 私の言う﹁論理の欠陥﹂がよくわからないということなので、ゴンリの例で説明します。ゴンリの例では、 A: ゴンリという食材にはゴンリナーゼという成分が含まれている B: ゴンリナーゼには、がん細胞を殺す作用がある C: ゴンリを食べることはがんになるリスクを減少させる としたときに、ゴンリには発癌物質ゴンリペプチドが含まれている︵かもしれない︶から、AとBが正しくても、Cが成立しない︵可能性がある︶と言っています。そもそもA+B=Cが論理的に成立しない可能性があるなら、それは正しい合成とはいえません︵私が﹁論理の欠陥﹂と言っているのはこのことです︶。そして、正しく合成できていない事例を合成の例として提示するのは不適切だと思います。 一方、侵略戦争や殺人犯、殺人者の例では、AとBが正しいなら、Cも必ず正しいという論理関係になっているはずです︵そうなるように書いたつもりです︶。私は、これらはいずれも﹁誰がやっても同じ結論になる合成﹂だと思っています︵違う結論になりうるなら、ご指摘ください︶。 最後に、私がここで主張しているのは以下の2点です。 ●論理的に正しくない合成を独自の研究として排除されるべき合成の例として提示すると、論理的に正しい合成なら許容されるとの誤解を招くおそれがあるので、不適切である。︵これについては、上に書いたとおりです︶ ●許容される合成と許容されない合成の違いがわかるように、できるだけ限界事例に近い例を提示して、その違い・判断基準を説明すべきである。︵私としては、殺人者、殺人犯、侵略戦争の例を並べて、許容の是非の判断が分かれる理由︵=特定の観点を推しているから︶を説明すべきだと思っています。ちなみに、Aotakeさんのおっしゃる﹁出典なしになんらかの主張をしているから﹂という理由は、﹁出典なしに﹂と﹁何らかの主張をしているから﹂に分解できますが、﹁出典なしに﹂は殺人者も同じことですから理由になりません。﹁何らかの主張をしているから﹂なら﹁特定の観点を推しているから﹂と実質的には同じことを言っているのではないでしょうか。︶--Dwy 2007年6月10日 (日) 11:14 (UTC) 侵略戦争の例でも、殺人犯の例でも、その気になれば﹃論理的欠陥﹄を指摘できます。佐藤教授の言う﹁侵略戦争﹂は鈴木教授の言う﹁侵略戦争﹂より狭い範囲を指しているかもしれません。﹃人を殺したものは殺人犯﹄の出典と﹃Aは人を殺した﹄の出典とでは、﹃人を殺した﹄という言葉の指す範囲が違っているかもしれません。 -- NiKe 2007年6月10日 (日) 11:27 (UTC) そういうのは少し反則気味だと思いますし、言葉の意味が食い違っている場合は﹁論理的欠陥﹂とは言わないような気がします。いずれにしろ架空の例ですから、どうしてもとおっしゃるなら、例えば﹁侵略戦争﹂を﹁○○によって厳密に定義された意味での﹃侵略戦争﹄﹂等に言い換えることは問題なく可能です。--Dwy 2007年6月10日 (日) 11:46 (UTC) 新しく挙げられた﹁殺人者﹂の場合﹁A+B=C﹂は成り立ちますが、先に挙げた、殺人犯や侵略戦争の例は﹁A+B=Cが成り立つとは限らない﹂、明らかに﹁論理的に正しくない場合がある﹂例です。というか、その論理のほつれを詭弁として利用することで、それを﹁特定の観点の推進﹂に、いわば﹁悪用﹂できるというケースです。説明としては、﹁特定の観点の推進﹂ではなく、あくまで根っこの部分、つまり論理的に正しくないからという理由で、場合によって排除されるべきでしょう。それから、これは個人的な見解ですが、以前の﹁領土問題﹂の例や、﹁侵略戦争﹂を例示することは、特定の思想への偏りを連想させることから、いらぬ火種を招くリスクが高いものであるため、このような﹁方針文書﹂では、注意して使うことを避けるべきだと考えてます︵わざわざゴンリのような例を考え出したのも、そもそもはそれが動機です︶。そういった例をわざわざ使うことで、勘違いした人が議論をふっかけてきて、その都度に有能な参加者の時間と手間を奪うことになることは避けなければならないことだと考えています。--Y tambe 2007年6月10日 (日) 12:00 (UTC) 殺人犯や侵略戦争の例で﹁論理的に正しくない場合がある﹂というのが理解できません。どのような場合に論理的に正しくないのかご説明いただけないでしょうか?私としては、﹁A+B=C︵Aが真であり、Bが真であれば、Cも必ず真である︶﹂が完璧に成立していると思っています。︵もちろん、AやBが本当に真であるかどうかについては異論があるかもしれませんが、それについては信頼できる出典があると仮定した以上、とりあえずここでは議論しなくてよいと理解しています︶--Dwy 2007年6月10日 (日) 12:13 (UTC) ええと、たとえば、﹁侵略戦争﹂の例でいうと、佐藤教授の認識が正しいとされる範囲について、その﹁国際法﹂は、いつから、どの国の間で効力を持つか、政策責任者が指す人物に紛れはないか、といった部分には、解釈・運用の余地があります。A国の侵略戦争が、いつ起こったか、A国はどこの国か、といったことの検証がなければ、﹁従って、A国の政策責任者は、刑事責任を免れない﹂を、前の二つから単純に導くことはできないでしょう。殺人犯の方は、最初の﹁人を殺したものは殺人犯である。﹂は正確さに疑問がありますし、﹁Aは人を殺した。﹂もどういうレベルで認定されているかというのが確かではないので、例として分りにくくなっているように思いました。 (一)殺人犯とはこれこれこういうものである。︵出典あり︶ (二)Aは人を殺したことが認定されていて、上記の定義の及ぶ範囲から逸脱する要素は明らかに存在しない。︵出典あり︶ (三)Aは殺人犯である。︵直接の出典なし︶ となるならば、﹁単純な論理的演繹﹂となると思います。 それと、Dwy さんの意図としては、これが適当な例かどうかはともかく、たとえば、 (一)アインシュタインの重力場の方程式はこれこれである。︵出典あり︶ (二)これに必要な演算の方法はこれこれである。︵出典あり︶ (三)真空・球対称を仮定すると、以下の解が導かれる。
︵競合気にせず、内容は上のKs aka 98さんとほぼ同じですが︶
殺人犯の例については、﹁人を殺したものはすべて殺人犯である﹂という限定条件がなければ、A+B=Cは正しくない場合が起こりえます。そして、もし﹁すべて﹂を追加した文章については、それ自体が誤りになりえます。つまりAの文章について、その﹁限定条件がない﹂という曖昧な部分を利用した︵一意性のほつれを利用した︶詭弁的論法です。
侵略戦争についても類似のケースであり、Aの文章を普遍的に適用できる、という保証がないという点です。挙げられた例示は、そういう種類の︵ゴンリのように再現可能性のある自然科学実験結果や、ガガガガーのような調査結果ではない、解釈問題に当たる︶﹁︵普遍的事実とはいいがたい︶佐藤教授の意見﹂です。Aにおいて、普遍的に適用可能な﹁事実﹂は、﹁佐藤教授の論によれば、侵略戦争を起こした国の政策責任者は刑事責任を免れない﹂でしかありません。侵略戦争の例では、正しく合成される﹁独自の結論﹂Cは﹁佐藤教授の論によれば、A国の政策責任者は刑事責任を免れない﹂です。これであれば﹁論理的に正しい合成﹂だと言えるでしょう。
どちらの例も、そういう限定条件のほつれを利用した詭弁だ、というだけであって、基本的な構造はゴンリやガガガガーと同じです。むしろ例題としては、ご提示の例には﹁ABが正しいとして﹂を満たすかどうかの点に問題があり、そういう﹁一意性を確保してない文章﹂という点で、悪例だと考えます。これを例示した場合、読者は﹁AとBがともに正しくても、合成したCが問題になりうる﹂ではなく﹁そもそもAに問題がある﹂ケースとして受け取る危険性がありますので。--Y tambe 2007年6月10日 (日) 12:56 (UTC)
︵私も競合しました…ちょっと待つべきだったですね。︶他の方のおっしゃってることとかぶる部分もあるかと思いますが、一応、私もコメントさせてください。もういちど、シカゴマニュアルの例をみてください。これはDwyさんの侵略戦争や、殺人犯の例とおなじ構造になっています。﹁A国は周辺諸国に対して侵略戦争を起こした。﹂という出典に対して、その次に﹁国に対して侵略戦争を起こすことは国際法上の犯罪であり、その国の政策責任者は刑事責任を免れない。﹂という情報をもってきて組み合わせること自体が﹁独自の研究﹂なのです。その2つを組み合わせること自体がです。その2つを組み合わせた結果導かれる結論は、おそらくだれが見ても同じになるでしょう。でも、もしかしたら、A国の戦争に関しては、実は国際法上の犯罪にならない他の事情があるかもしれず、加筆者は意図的にその情報を無視しているかも知れません。ですから、ウィキペディアが要求するのは、﹁A国の政策責任者はこの侵略戦争によって刑事責任を問われることとなった︵田中教授︶﹂というA国の事情に直接言及した出典なのです。これは例えば、﹁Aは殺人をした。殺人をしたものは必ず地獄に落ちる。したがってAは地獄に落ちる﹂なんて例にしてみたらわかりやすくなるでしょうか。これだって、Dwyさんの考えで言えば、論理的に正しいでしょう。でも、﹁殺人をしたものは必ず地獄に落ちる﹂ということを持ちだすこと自体が、独自の研究になるわけです。ですが、﹁Aは地獄に落ちると某は述べた﹂だったらOKなわけです。ゴンリの例は、そういうことに気付かせるために、わざと、ああいう文章になっています。もしかしたら、Y tambeさんの文章を私がいじったときにわかりにくくしたのかもしれないので、そうだとしたらもちろん修正は歓迎なのですが、根本的にゴンリの例とDwyさんが出されている例は同質のものだと思います。
あと、殺人者の例まで行くと、﹁殺人をしたものは殺人者である﹂という一般的に使われることばの定義レベルの話なので質が違います。﹁アップルパイとはリンゴのパイである﹂というのに出典はいりませんよ、という見解と同質です。--Aotake 2007年6月10日 (日) 13:04 (UTC)
「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」について 2[編集]
長くなったので節を分けます。
ありがたいことにKs aka 98さんが、次のような﹁単純な論理的演繹﹂の例を出してくださいました。他の皆さんは、これが﹁単純な論理的演繹﹂であると同意されますでしょうか?
(一)殺人犯とはこれこれこういうものである。︵出典あり︶
(二)Aは人を殺したことが認定されていて、上記の定義の及ぶ範囲から逸脱する要素は明らかに存在しない。︵出典あり︶
(三)Aは殺人犯である。︵直接の出典なし︶
実は私は、この例だとケースバイケースで結論が分かれるのではないかと思っています。つまり、Aが殺人犯であることにあまり異論がない場合︵例えば、Aが犯行を認めており、誰からも異論が出ていない場合︶は﹁単純な論理演繹﹂となるが、Aを殺人犯とすることがcontroversialである場合︵裁判で有罪になったAが冤罪を主張している場合等︶には、特定の観点を推進していることになり、﹁独自の研究﹂として排除されるのだと考えています。皆さんのお考えは、いかがでしょう?--Dwy 2007年6月10日 (日) 16:54 (UTC)
ああ、難しいな。たとえば
(一)殺人犯というのを刑法199条を根拠として殺人を犯し、その犯罪が裁判によって確定したものと定義し、
(二)ある人が、裁判によって殺人が認定され罪が確定した場合
(三)1.の定義を採用する限りにおいては﹁ある人﹂は殺人犯である。
と書くのは、論理としては独自研究ではないと思いますが、1.の定義が問題になるかもしれません。つまり﹁殺人犯﹂という法律用語があるわけではなく、言葉自体のニュアンスとしては、単にあらゆる﹁殺人罪を犯した人﹂を指すものではないという観点に立てば、1.の定義を持ち出すことが﹁特定の観点を推進するような…﹂となりえます。これは1.から3.に至る論理演繹ではなく、1.の選択のなかに恣意性が入っているということになるでしょう。シカゴマニュアルの例がこれですね。個人的には、シカゴマニュアルの例は、あんまりよくない例だと思っていて、この殺人犯の例でも、﹁﹁ある人﹂はどこそこの裁判で刑が確定した殺人犯だが、冤罪を主張している﹂という書き方ならいいんじゃないかと思わなくもない。controversialであるのは、Aを殺人犯とすることにあるのではなく、殺人犯の定義の採用の仕方による、と。このへんはむしろNPOVで対処のほうがはっきりしてるんじゃないかなあと思ってます。--Ks aka 98 2007年6月10日 (日) 17:40 (UTC)
明示されていない命題があるから、一見すると標記の三段論法が成立しているようにみえるだけで、明示していない暗黙の命題が覆されればいくらでも論理は破綻する、という次第ですかね?論理というのは、数学のように定義そのものを公理系のなかて位置づけるほど純粋化でもしない限り、かならず暗黙の前提命題を含みます。既知の出典だけを元に、安直な論理構成をもって断定してしまった命題が、新たな科学的発見により全否定される、などという事例は歴史上にいっぱいありそうですしね。そもそも、論理的な予測の結果であるはずの天気予報ですら、ときおりハズれたりするわけでw地震予報はもっとヒサンかな?--58.95.142.253 2007年6月10日 (日) 18:54 (UTC)
三段論法がちゃんと成立しているなら、後から明示されていなかった命題が出てきても、それで論理が破綻するということは普通はないはずです。でも、﹁AでありBである、故にCである﹂という三段論法に対して、後から﹁Aというのは本当はA’のことかもしれないから・・・﹂とか﹁Bというのは間違いのようだから・・・﹂というような反則技を出されては、さすがにどうしようもないというところでしょうか。--Dwy 2007年6月10日 (日) 20:06 (UTC)
趣旨を逸脱していませんか?論理的に正しい事を追求しているのではなく、記述に客観中立性があることを追求しているのですが・・・。どうもDwyさんは論理に対する強い偏向があるような印象を受けるのですが・・・失礼ですが、ちょっと気になっていたのですけど、論理学について︵大学などで︶指導者から体系的に学習された事がないのでは・・・?--58.95.142.253 2007年6月11日 (月) 02:07 (UTC)
論理学については、詳しくありません。しかし、ここで議論すべき﹁論理﹂は、﹁専門知識を持たない読者にとっても理解できるもの﹂でなければならないはずですから、常識の範囲を超えた厳密な論理学が必要だとも思いません。複雑に書くと判りにくいだろうから単純化した例を提示しているときに、﹁佐藤教授と鈴木教授では用語の使用方法が違うかもしれない﹂とか細かいことをほじくり返しても仕方がないでしょう?﹁Aは正しい︵信頼できる情報源がある︶﹂と仮定しているのに﹁Aは正しくないかもしれない﹂とか言い出すのは、反則︵それこそ独自の研究︶ではないですか?これは別に論理学の問題ではないと思います。--Dwy 2007年6月11日 (月) 03:32 (UTC)
フム。では、Wikipediaに持ち寄られた出典つき記事のコレクションに不足がある、というケースを考えてみるとどうでしょうか。投稿者個々は、自分の知りえる範囲で情報を持ち寄り投稿するわけですが、それによってコレクションが完備している保証はない。その不足しているコレクションだけを全体として論理を設計し、Wikipedia独自の結論を得たとして、それが正確な記事であるとWikipediaが表明してよいかどうか、という観点です。論理の表例に従えば、日本国法に限定した叙述だけで一般化してよいか、あるいは現代法だけに則ってWikipedia独自の結論を表明してよいか。つぎに﹃﹁Aは正しい︵信頼できる情報源がある︶﹂と仮定しているのに﹁Aは正しくないかもしれない﹂とか言い出すのは、反則﹄ではありません。﹁Aは正しくないかもしれない﹂という信頼できる出典があれば、Wikipediaに投稿しても良いのです。その結果、Wikipediaの独自の結論が破綻したとしても、恥ずかしいのは新たな記事を投稿をした方ではなく、独自の推論を断定的に記述してしまった方という次第でしょう。--58.95.142.253 2007年6月11日 (月) 04:18 (UTC)
58.95.142.253さんに︵他の方にも︶理解していただきたいのは、私が話題にしているのは、﹁独自の研究﹂として排除されるべき﹁特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成﹂がどのようなものかを説明するために使用する架空の例であり、話を簡単にするために単純化された例であるということです。そういう例示では、﹁︵実際の事例を論じるならそんなに単純に言い切れないことは承知の上だが、ここでそういう複雑なことをいちいち書いていたらきりがないから、細かいことには目をつぶって︶Aは正しいと仮定する﹂わけです。例としての適切さ・理解のしやすさの観点からの批判はいろいろあるでしょうが、少なくとも例の﹁論理﹂を論じる際に﹁Aは正しくないかもしれない﹂を言い出すのは明らかに反則だと思います。あとから﹁Aは正しくないかもしれない﹂を言い出してよいなら、破綻しない論理はひとつもありません。--Dwy 2007年6月11日 (月) 05:01 (UTC)
ソコソコ。﹁論理が破綻していなければ書いてよい﹂ではなく、﹁論理の前提を軽視して論理を推進してはいけない﹂です。ゴンリの例がそれです。もしかすると﹁出典の無い記事はすべて書いてはならない﹂という点に引っかかってらっしゃるのでは?いっとき出典の明記テンプレートを張りまくり、記事を削除しまくる荒らしがありましたが、Wikipedia:出典を明記するはスタイルガイドラインであると再確認され、出典の有無による記事の当否判断は﹁独自研究﹂や﹁中立性﹂﹁検証可能性﹂などから総合的に判定するという方針が確認されたと認識しています。かつて検証可能性の項目で﹁出典のないものは無条件で削除されても文句が言えない﹂云々規定があったことが問題の中心だと考えます。現行の検証可能性規定では﹁出典が無い場合でも削除には注意﹂に修正されていますので、出典に対する硬性度は緩和されていると思われます。--58.95.142.253 2007年6月11日 (月) 05:52 (UTC)
私が何を主張しているか判り難くなってしまっているのかも知れませんが、私の主張は﹁﹃独自の研究となる合成﹄の例は、論理的に正しい合成の例を提示すべきであり、ゴンリやガガガガ-の例は、合成が論理的に正しくないから不適切である﹂というものです。これに対して皆さんが﹁そういうお前の侵略戦争や殺人犯の例の合成も、論理的に正しくない﹂とおっしゃるので、﹁侵略戦争や殺人犯の例は、︵現実を単純化しており、適切な例とは言えないのかもしれないが︶、論理的には正しい合成になっているはず﹂と反論しているに過ぎません。﹁論理が破綻していなければ書いてよい﹂のようなことは、全く考えていません。また、自分の考えた例に拘るつもりはありませんから、﹁論理的には正しい合成だが﹃独自の研究﹄になる例﹂でより適切なものがあるなら、それでも全然かまいません。︵だから、この節の始めでは、Ks aka 98さんの殺人犯の例をベースに議論できないか試みているわけです︶--Dwy 2007年6月11日 (月) 07:02 (UTC)
なるほど。誤謬という面白い記事が最近翻訳されましたので、そちらあたりの文例や用語も上手く活用したいですね。詭弁も面白いです。--58.95.142.253 2007年6月11日 (月) 07:24 (UTC)
wikipediaはワタクシのようなIPアドレス主義者が、匿名をもって、いくらでも勝手に編集ができるオープンな百科辞典ですから、無責任な人格による断定的な記事は、みなさんあまり読みたくないンじゃないですかね(゜∀゜)?いや、アカウントを作ってログイン投稿したところで、その匿名性はなんら担保されてるわけじゃないんですけども。--58.95.142.253 2007年6月10日 (日) 18:54 (UTC)
うーんと、Dwyさんの﹁論理の合成が正しい﹂という表現が議論をあらぬ方にもっていってるのかもしれませんね。つまり、Dwyさんは、﹁AはBを含む。BはCである。AはCである。﹂︵ゴンリ︶とか、﹁AはBである。AはCである。CであるのはBが理由である。﹂︵ガガガガー︶というのではなくて、もっと、いわゆる﹁三段論法﹂ぽい﹁AはBである。BはCである。したがってAはCである。﹂という例にすべきだ、ということですね。しつこいようですが、そういう例を加えること自体はいいことだとおもいます。ですが、それがどうしてだめなのか、という理由を方針文書として示すときに、﹁特定の観点を推進しているから﹂ということばかりを前面に出すことにはやはりためらいを感じます。だめな理由として第一に上げられるべきなのは、﹁Aの話題について直接﹃AはCである﹄としている出典を示しておらず、﹃BはCである﹄という情報をAに関することとして持ちだしていることが独自研究だから﹂ではないでしょうか。逆に、アップルパイ、殺人者、得票率などの例は、﹁特定の観点を推進していないからOK﹂なのではなくて、分別ある大人の常識的な判断として﹁そりゃそうでしょ﹂というものだから、認められるのではないでしょうか︵追記‥でも﹁そりゃそうでしょ﹂ということは﹁特定の観点を推進していない﹂わけだから結局同じことなのカナ。うーん、ますます混乱してきました。つまり、﹁B=C﹂を持ちだす行為がどのくらい﹁常識としてみとめられるか﹂ということが問題だということですよね。--Aotake 2007年6月11日 (月) 11:15 (UTC)︶
それと、おそらくDwyさんの主張の中には、ゴンリやガガガガーの例は削除すべきだという点もありますよね。これについては、私は現時点では反対です。ゴンリとガガガガーの例はどういう例にすれば、﹁出典のある情報を組み合わせた独自研究﹂がどういうものかウィキペディアの参加者が理解できるか、ということについて、それなりに議論を重ねて出てきた例ですし、﹁出典のある情報を組み合わせた独自研究﹂として不適切なものとは言えないと思うからです。ただ、﹁三段論法﹂ぽい例でうまいものが見つかって差し換えたときに、全体として方針内容のわかりやすさが低下しないようであれば、最終的には賛成できるかもしれません。--Aotake 2007年6月11日 (月) 11:09 (UTC)
︵また競合しましたが気にせず︶えーと、だいぶ判ってきました。実は、私がゴンリの例の元になったものをWikipedia‐ノート:Attribution#第2節で提示したときにも、同じようなポイントへのコメントを述べてます。合成されたものが、﹁正しい論理によって導き出された、根拠のある意見 sound opinion﹂か﹁根拠薄弱な意見 unsound opinion﹂か、という部分に関する指摘ですね。ゴンリやガガガガーの例については、この後者の例となっており、前者を排除する理由の例とはなっていないではないか、ということで、Dwyさんは﹁前者の例に当たる﹂ものを考案しようとされた、と︵で、それが実は後者の例でしかなかったので、Dwyさんの主張が見えなかったわけですが︶。
その理解で合っているのであれば、ゴンリやガガガガーの例を﹁置き換える﹂のではなく、これも私が前に提示したときのやり方なんですが、﹁︵ゴンリの原型になった︶後者の例に当たるもの﹂﹁前者の例に当たるもの︵論理的に正しいが独自研究の例として、私はDHMOの実例を挙げました︶﹂の順に、両方の例を提示するのがいいのではないかと思います。﹁後者の例 unsound opinion﹂を載せていけない理由は、﹁前者の例 sound opinion﹂を載せていけない理由よりも、初心者には恐らく判りやすいため、まずは後者の例で納得させた上で、実は前者の例も同じ論理展開になってるので﹁厳密に言ったら﹂やっぱり駄目ですよ、という解説構成にしてます。Aotakeさんも述べられていますが、﹁例文が多くて困ることは無い﹂ですから、そういう順序で、Dwyさんの考える﹁論理的には正しいけど独自研究に当たるので駄目な例﹂を﹁追加﹂するのがよろしいかと思います。ただし、先に挙げた﹁殺人犯や侵略戦争﹂の例は、やはり論理展開に問題があるので、別の例を考えていただきたいところですが。
で、以前、私はそこでも、﹁情状酌量の余地はあるけれども、原則はどちらも禁止ということでいいんじゃないかな﹂という意見を述べていますが、まぁ実際の﹁実務的な﹂ラインとしては、恐らく根拠のある意見か、根拠薄弱な意見かを、白黒はっきりさせることは難しいだろうな、とも思ってます。例えば、そこを厳しく縛ってしまうと、明らかに﹁論理的根拠から信頼できる結論﹂なのに﹁信頼できないもの﹂として扱ってしまうというケースが起こりうる…ちょうど単純な独自調査の例外となる﹁アップルパイ﹂のようなケースや、﹁単純な算出の許容﹂に該当するものです。先に﹁情状酌量の余地を認めるケースがあってもいい﹂と書いてるのはその辺り、つまりグレイゾーン的な判断が下される可能性に含みを持たせてるわけです。
多分、これまで挙がった例の中では、磯多申紋さんが以前、Wikipedia‐ノート:Attributionで挙げられた﹃A) A氏は120キロ離れてるXY間を先週1時間で車で移動した、と述べた。B) XY間の道路の制限速度は最高でも100キロである。C) A氏は先週速度違反を犯したことになる﹄という例がいちばんいいスタートになるのではないかと思います。ただ、これも﹁論理的には正しいが独自の合成﹂ですが、現状では、単純な算出の許容との線引きが難しい︵白に近いグレー︶ものなのではないかな、と。恐らく例題の﹁論理的な正しさ﹂を追求すればするほど、それはグレーゾーンの中で白に近づいていくことになると思いますので、この例文を考えるのはかなり難しいですね。
あとDwyさんが当初に述べられた﹁特定の観点を推進する﹂の文章については、上のAotakeさんと同じ考えですし、理由については以前の反論のままですので割愛します。--Y tambe 2007年6月11日 (月) 11:36 (UTC)
●三段論法として正しくて、行ってはいけない合成として①﹁A氏はB民族である︵出典︶﹂②﹁B民族は下等である︵出典︶﹂③﹁A氏は下等である︵無出典︶﹂。この場合②の出典の実在が確認できる事を持って③を合成してはいけないですね。--58.95.142.253 2007年6月11日 (月) 12:14 (UTC)①①﹁A氏はB民族である︵出典︶﹂②﹁C文書によればB民族は下等である︵出典︶﹂③﹁C文書によればA氏は下等である︵無出典︶﹂。こちらは、より正しい三段論法ですが、やはりしてはいけない合成ですね。--58.95.142.253 2007年6月11日 (月) 12:19 (UTC)
Y tambeさんのお考えが今ひとつ理解できないので質問させてください。上で引用されている磯多申紋さんのスピード違反の例は、結局、書いてよい例なのでしょうか、いけない例なのでしょうか?そして、その判断基準は何なのでしょうか?﹁﹃論理的な正しさ﹄を追求すればするほど、それはグレーゾーンの中で白に近づいていくことになると思います﹂と言われているところを見ると、論理が正しければ書いてよいというお考えのようにも見えますが、そういうことなのでしょうか?
ちなみに自分の考えははっきりしていて、判断基準は、例によって﹁特定の観点を推進しているかどうか=結論がControversialかどうか﹂、従って、他の人から異議が出なければ合成で書いもよいが、異議が出た時にはそのものズバリの情報源を探してこなければダメという結論になります。--Dwy 2007年6月12日 (火) 12:12 (UTC)
んー、多分、この回答でDwyさんは満足しないと思いますが、磯多申紋さんの例文はやっぱり、僕には﹁グレー﹂としか答えようがないですね。ここらへんは、多分上で述べた﹁見解の違い﹂が関わってきますから理解されないかもしれませんが。僕自身は、これを﹁書いてもいい﹂と思いますが、もしかしたら他の人は﹁書いてはいけない﹂と思うかもしれない、そういう予断が存在しうる例だと。ただ、この例文そのものに関して言えば、﹁単純な算出の許容﹂であるとの主張を覆すことは難しそうなので、その線から﹁書いてもいい例﹂になりうる、という点で、﹁かなり白に近い例﹂だろうと思います。なので、例文としてはもう少しグレーなものの方が望ましいかな、と。
我ながら、やたらまどろっこしい言い方をしてるな、とは思います。ただ、なぜ僕がこんな言い方をするか、という点については、以前にNHKの視点論点で大阪大の菊池先生がニセ科学について語った﹁ニセ科学は単純な二分法で複雑な問題に明快に白黒をつけてくれる[1]が、科学者に同じような質問をしても、何だかごにょごにょと、ああでもないこうでもないと喋りだして、結局のところよく分からない﹂というようなものだと理解していただければなあ、と思います。正確かつ一意性が要求される場面で、正確かつ一意に語ろうとしてるので、こういう文章になってしまうのだと。
Dwyさんがその判断基準を進めたい、というのは判りますが、私の主張は最初から一貫していて﹁そういう﹃解釈問題を生じさせる﹄文言を上位レイヤーに持ち込むべきではない﹂ということです。それは、一見よさそうに見えるけど、実は見た目以上に厄介な問題を生じさせる類いのもの、喩えるならば、一種の地雷、あるいはセキュリティホールを心臓部に埋め込むようなことなのです。逆に、問題を生みそうな基準なんかは﹁下位レイヤー﹂に止めておけば、いざ問題がおきたとしても、その﹁下位レイヤー﹂だけで話し合えばすみ、上位レイヤーの方針の堅牢性は保たれます。また﹁信頼できるかどうか﹂の基準について︵正しくコミュニティ全体の合意に従って︶見直しを行うときにも、下位レべルで︵言い換えるなら、﹁憲法﹂﹁法律﹂でなく﹁政令﹂レベルで︶変更するなど、柔軟に運用していくことが可能になります。そこらあたりの階層をきれいに切り分けておくことが円滑な運用には重要で、下位でする話をやたらめったらと上位まで上げていくべきではない、ということですね。
大体は、そういう形のリスク予測を立てた上で、﹁上位レイヤーに入れるべきではない﹂と反対しているわけです。下位レイヤーでそれを規定して、その判断基準に従って実務的に処理していこうとすることに反対しているわけではありません。
それから、今回Dwyさんが述べた﹁他の人から異議が出なければ合成で書いもよいが、異議が出た時にはそのものズバリの情報源を探してこなければダメ﹂という文章の方が、﹁特定の観点を推進しているかどうか﹂よりは分かり易いんじゃないかな、と思いました。ただしこちらも上位レイヤーに持って来るには問題︵﹁異議が出ない﹂だけを以て信頼性の基準にはできないという、プリミティブかつクリティカルな問題点︶がありますが。でも、下位レイヤーに書くには良い文章じゃないか、と思います。--Y tambe 2007年6月12日 (火) 13:24 (UTC)
自然科学の法則なら、人間が白黒つけなくても、神様の決めた法則に従って何の支障もなく物事が進んでいくでしょうが、人間社会の方針・ルールは、できるだけ白黒つけてやらないと、物事がストップしてしまうような気がします。Y tambeさんの言われる上位レイヤー・下位レイヤーの話はなんとなくわかりますが、﹁じゃあ、下位レイヤーってどこ?﹂と言いたくはなります。
本題に戻って・・・ ﹁特定の観点を推進しているかどうか﹂について私が言ってることは、実は英語版の議論の受売りみたいなものです︵断片的に拾い読みしただけなので、偏った見方になっているかもしれませんが・・・︶。Aotakeさんが上で言われているように、﹁A+B=C﹂のCの部分は必ずしも明示的に記述される必要はなく、AとBの﹁2つを組み合わせること自体﹂が﹁独自の研究﹂になりうるわけですが、しかし一方で、いろんな資料を調べて情報を集め、それを整理して掲載することは、Wikipediaの編集の基本中の基本です。英語版では、﹁情報の組み合わせから導かれる全ての論理的結論について、その結論を直接サポートする出典を要求されるとしたら、とても記事なんか書けないじゃないか﹂のような議論があって、その結果として、Wikipedia:Attributionでは﹁公表された情報を組み合わせた未公表な見解﹂の直後に﹁独自研究でないものとは何か﹂の章が入ったのだと理解しています。
・・・というようなことをいろいろ考えていたら、当面は英語版の表現を日本語版でもフォローしていくのが無難だと思えてきました。こちらで独自の表現を記載したいという主張は取り下げることにします。﹁特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成﹂の例の問題︵ゴンリ・ガガガガーの例をどうしたいのか、他の例を追加するのかetc.︶については、もう少し考えを整理して、また後で意見を述べたいと思います。--Dwy 2007年6月13日 (水) 07:33 (UTC)
時間がたって少し冷静になって考えてみると、どうも私の感覚は他の方と違うようなので、ひとりで力んでみても仕方がないのかなと思えてきました。しかし、このまま沈黙してしまうのも何だか変なので、次の2点だけ問題提起してみます。
●ゴンリやガガガガーの例は誤解を招きやすいと思いませんか?
﹁発表済みの情報の新たな合成﹂が禁止されるのは、それが﹁独自の研究﹂だからです。それ以外の理由ではありません。﹁独自の研究﹂とは、記述内容を直接裏付ける﹁信頼できる情報源﹂がないものを言います。従って、例を挙げて説明する場合にも、直接の裏付けとなる﹁信頼できる情報源﹂がないという点に焦点が当たっていなければなりません。
ゴンリやガガガガーの例は、﹁誰にでも問題点が判る﹂ということを重視して書かれた例だそうです。﹁とにかく分かりやすさを追求するなかで選ばれた例ですから、論理欠陥が目につきやすいような例が選ばれている﹂とおっしゃっている方もいます。ちょっと待ってください?!﹁発表済みの情報の新たな合成﹂の問題点は、その情報を直接裏付ける信頼できる情報源がないことだったはずなのに、いつのまにか﹁論理的欠陥﹂が問題点にすり替わっていませんか?これでは、﹁判りやすい﹂ところか﹁誤解を招きやすい﹂ではないですか?
また、ガガガガーの説明の仕方は、ちょっと変ではないですか?﹁この文章は﹃この結果﹄ではなく﹃また﹄で接続されなければなりません﹂とありますが、これなどは、﹁独自の研究の禁止﹂ではなく、﹁論理的に正しい記述の仕方﹂を語っているようにしか見えません。﹁独自の研究﹂に対するアドバイスは、あくまで﹁その記述内容を直接裏付ける信頼できる情報源を提示してください﹂だったはずです。
●﹁例文が多くて困ることは無い﹂なら、どうしてシカゴ・マニュアルの例を除去してしまったのでしょう?
ゴンリやガガガガーについてはそれなりに議論を経たようですが、シカゴ・マニュアルの例の除去自体については所与の結論とされていたようで、なぜ除去しなくてはいけないのか、あまり議論されていなかったのではないかと思います。英語版では、いろいろな議論を経た末に今でも生き残っている例ですし、分かりにくいという欠点はあるものの、いろいろ良い点もあると思います。例えば、︵1︶実際に問題になった事例に基づく生きた例であること、︵2︶﹁シカゴ・マニュアルによればジョーンズの行為は剽窃ではない﹂という結論を明示的に記述しなくても﹁独自の研究﹂になりうると明らかにしていること、︵3︶出典のある情報から﹁シカゴ・マニュアルによればジョーンズの行為は剽窃ではない﹂という結論を導くロジックが一応論理的に見える︵4︶複雑で判りにくい所がまた良い︵と言ったら怒られるかもしれませんが、実際の例は判りやすい単純な事例ばかりでないことを示すことも必要かと思います︶。﹁例文が多くて困ることは無い﹂なら、復活した方が良いのではないでしょうか?
長々議論させていただきましたから、最後にもう一度けじめとして言いたいことを言っておくということで、同調してくださる方が現れない限り、これ以上の主張はしないつもりです。--Dwy 2007年6月19日 (火) 10:30 (UTC)
●Dwyさんが﹁こうすべきでは?﹂と仰っている、まさにそのとおりに本編項目は記載されているようにしか読み取れません。﹁完璧な前提﹂真から得られた三段論法の結論は﹁真﹂ですが、これはある種の循環論法です。﹃結論を知っていないならば、大前提の全称判断は得られないのだから、三段論法は一種の循環論証である﹄︵三段論法より︶--125.205.9.64 2007年6月19日 (火) 11:14 (UTC)
えーと、私もまとめ代わりに、ゴンリやガガガガーの例についてコメントしておきます︵とかいいつつ、こちらは単に最近考えてたことを書き留めようとしてるだけだったりもするんですが ^^;︶
まず、なんでそもそも﹁検証可能性﹂﹁独自研究は載せない﹂という方針が、しかも後から、コアな方針の一つとして付け足されたのか、というと、それはひとえに﹁ウィキペディアに書いてあることって信頼できるの?﹂という、主に外部からの批判に耐えるだけの内容の信頼性を保証するため、言い換えると﹁品質管理﹂という目的のためです。ただし、ここで重要なのは﹁品質管理﹂こそが目的であって、﹁検証可能性﹂﹁独自研究を載せない﹂というのは、その達成のための手段にすぎない、ということです。例えば、ブリタニカなどでは﹁専門家による執筆﹂と﹁専門家による査読﹂﹁編集者によるチェック﹂によって、それを達成しており、おそらくはそちらの手段の方が︵これまでの稼働実績から言って︶より信頼性が高い、と判断する人が多いやり方です。しかしながら、ウィキペディアにおいては、︵先行したNupediaの失敗を糧に︶非専門家による執筆を許容することで記事数の集積に成功したこと、査読を主軸に据えた品質管理制度というのは実現性が低い、あるいは実現に時間を要するために実用的でない、ということから、ブリタニカとは別のやり方での品質管理を行う必要性があったわけです。そのための手段として、﹁検証可能性﹂﹁独自研究は載せない﹂という方法が採用された、けど、その目的は﹁信頼できないことが書かれていたら、それを改善できるような仕組みを作る﹂ということです。言い換えると、それこそがポイントであり、﹁検証可能性を満たさない﹂﹁独自研究に当たる﹂というのは、それが﹁信頼できないことかどうか﹂を見分けるための、判定基準の一つだ、ということです︵これは、いずれもかなり﹁粗い﹂基準なんですが、その問題点については、ここでは置いておきます︶
で、ゴンリやガガガガーの例についてですが、これはそもそも﹁合成﹂という﹁独自研究﹂の中ではやや特殊な事例としての例示です。特殊な事例ではありますが、実際に頻出することが予想されるケースでもありますので、これらについて例示し、解説する必要性があるわけです。で、ここで考えなければならないことはなにかというと、﹁﹃合成された独自の結論﹄を、なぜ排除せねばならないのか﹂ということです。勘違いしてはいけないことなんですが、﹁出典がないから﹂では厳密には正解ではないんですね。実際の運用過程においては﹁出典がないから﹂で記述の除去などの処理が行われるでしょうけれど、重要なのはそこじゃない。それはあくまで手段の部分に係っていることであって、本当に重要なのは﹁信頼できる内容とは言えないから﹂という、本来の目的に係る部分なんです。
少なくともこの解説文書においては、通常の﹁独自研究﹂が排除されるのは、それが﹁信頼できないから﹂︵厳密には﹁ウィキペディアでは信頼できないものとして扱うことにしているから﹂︶排除されるということを書かなければなりません。﹁なぜ独自研究を排除するのか﹂というものに対する答えが﹁独自研究だから﹂や﹁出典が無いから﹂﹁検証可能性を満たさないから﹂では説明になってないのと同様に、﹁合成された独自の結論をなぜ排除せねばならないのか﹂に対する答えが﹁出典がないから﹂では、﹁合成された独自の結論﹂がはらんでいる問題点を指摘するという、解説の目的を果たしてるとは言えないわけです。ここで解説しなければならないのは、﹁合成された独自の結論は、信頼できる内容とは言えない事例があるため、排除せねばならない﹂ということです。そして﹁信頼できる内容とは言えない事例がある﹂ことを説得力を持って解説するためには、﹁論理的な矛盾をはらんだ、分かり易い事例﹂が必要になるわけです。
実を言うと、最近この﹁独自研究を載せない﹂や﹁検証可能性﹂が徐々に定着してきつつあることを実感しているのですが、それはそれで良い事なんだろうけど、それに伴って、本来﹁手段﹂でしかない、この二つの方針が一人歩きして、﹁最終的な目的﹂と勘違いしている人︵杓子定規に振り回せばいいと思っている人とか︶が現れつつあるなぁ、ということを危惧していたりします。恐らく、ウィキペディアにおいてはこの二つの方針が将来的にもコアな方針でありつづけるんだろうな、と思う反面、この二つの方針を品質管理の主軸に据えるやり方も万能ではないよ、ということも頭の片隅に置いておく必要があると考えています。もしかしたら将来的には︵この二つの方針が追加されたのと同様に︶記事の品質管理方法について、もっといいやり方が見つかって、方針転換をはかる時がくるのかもしれない、と︵まぁ完全なリプレースというのも考えにくいことなんですが︶。そういう意味では、﹁独自研究を載せない﹂﹁検証可能性﹂という方針をただ一人歩きさせることなく、その根源にある﹁記事の信頼性の確保﹂という本来の目的を見失わないようにしておくことこそが重要だと考えてます。--Y tambe 2007年6月19日 (火) 11:46 (UTC)
︵コメント︶Dwyさんのご指摘も論理的に別に間違っていない部分が多いと思いますが、シカゴマニュアルの点については、﹁シカゴ・マニュアルの例の除去自体については所与の結論とされていた﹂わけではないですね。Wikipedia‐ノート:Attribution#公表された情報を組み合わせた未公表な見解の冒頭部分からがそのやり取りですが、複数の者が検討に参加し、置き換えの方針に異論を許さないようなものではありません。シカゴマニュアルの分かりにくさが、論理操作や蓋然性の分かりにくさ、などの点であればそれもまた意義あり、といえるのかもしれませんが、むしろ日本語人に背景知識としてのシカゴマニュアルそのものの認識が低いのでは、という指摘があり、それは説得的であると思います。馴染みの薄いテーマゆえに余計わかりにくい、のを避けるのは妥当と思います。--磯多申紋 2007年6月19日 (火) 13:48 (UTC)
- Dwy氏の提示されている問題意識(厳密な論理性による演繹的な記述)は、たとえば数学の著名な証明を出典情報なしにWikipedia上で記事にして良いか?などといったあたりで集約してみれば議論の価値はありそうに拝見したしました。たとえば十七角形の作図問題など出典情報は無い記事ですね。もっとも出典情報を求めれば比較的容易にどなたかに提示して貰えそうですが。--121.118.219.166 2007年8月5日 (日) 09:25 (UTC)上で似たような議論をされている方がおられましたね。(汗--121.118.219.166 2007年8月5日 (日) 09:29 (UTC)
「資料」の具体例に関して[編集]
資料の項目の最後の段落に﹁︵1︶専門知識が・・・できる解説﹂と書いてありますが、この部分に該当する具体例としてはどの様なものがありますでしょうか。できれば、これに該当する具体例も﹁この例として﹂の部分に明記してあった方が良いと思うのですが。--輪宝スダルサナ 2007年8月6日 (月) 11:45 (UTC)
アップルパイが、相当する例として挙げられているのではないかと思います。英語版の方針のドラフトの頃からあるようですので、このへんが想定されていたのではないかと思います。個人的には、これらは﹁例外﹂なので、どうしても資料がみつからないという状況であれば許容しうるという程度で、アップルパイや、それよりも﹁専門知識が・・・できる解説﹂であっても、情報源を探す努力を怠るべきではないと考えます。--Ks aka 98 2007年8月13日 (月) 16:10 (UTC)
「情報源に基づいた調査」の範囲[編集]
Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料より、
現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査は、もちろん強く奨励されています。そうした記述は﹁独自の研究﹂には当たりません—それは﹁情報源に基づいた調査﹂であり、百科事典の執筆の基本です。
とありますが、どこまでが﹁現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査﹂に相当するでしょうか。
具体的にはWikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト_鉄道/駅/乗降客数ランキング表の駅記事への貼り付けについて#独自の研究に相当するかで議論していますが、各鉄道会社等が発表した乗降人員のデータを元に、駅ごとのランキングを作成する行為が上記に当てはまるかどうか、あるいは二次資料の作成となり排除されるべきものなのか、見解が分かれています。
同等の例と思われるものとして、各国のランキング︵国の人口密度順リストなど︶を上げておきます。日本語版は出典不明ですが、英語版 (en:List of countries by population density) は複数の情報源から人口と面積のデータを得て、ウィキペディアで人口密度を算出した上でランキング化しています。前者が認められず後者が認められるとするなら、その違いはどこに見いだせますでしょうか。見解をお願いします。--Tamago915 2007年8月30日 (木) 04:30 (UTC)
資料からの引用であることが明確になるように導入していれば問題は無いのではないでしょうか。電話で駅長さんにヒアリングしたとか、自分達が駅前に立って一月の乗降客をカウントした、などといった物は明白に﹁独自研究﹂に相当すると考えます。乗降客数ランキングの類いは出典によりランキングが複数あってもおかしく無いと考えます︵推計方法などの違い︶が、出典とすべき引用資料に対して投稿者間で議論が無いのであれば、それを元にランキングを作成することは単なる情報の整理であり独自研究と呼ぶまでも無いのではないか。--121.118.216.207 2007年8月30日 (木) 04:53 (UTC)
面積と人口から人口密度を算出する場合には注意が必要です。まず、国の面積、人口とも統計に幅があります︵ノート:中華人民共和国#中国の国土面積が世界3位というのは正しいか︶。さらに、面積・人口とも変動します。どちらかが小さい国では用いる値によって人口密度の値がかなり異なります。したがって、編集時に計算するのではなく、同一の基準で計算している国連の統計などをそのまま引いた方がよいでしょう。---Redattore 2007年8月30日 (木) 06:45 (UTC)
例示した項目の個別の問題は、論点が不明瞭になりますので、ここでは行わずに各項目の記事でお願いできますでしょうか。
どこまでが﹁情報源に基づいた調査﹂でどこからが﹁二次資料の作成﹂かは見解の相違があり、自分はランキングの作成までふくめて﹁情報源に基づいた調査﹂であると考えていますが、別々の出典から得た数値を合成すること︵駅の例でいうと、A社とB社が乗り入れている駅について、自社線の乗降人員がA社8642人、B社5678人と発表されているとき、この駅の乗降人員を14320人︵合計値︶と記載すること︶も二次資料の作成に当たるという意見もあります。
こういうふうにいろいろな見解が出ているので、きっちりした線は引けなくとも、ここはOK、ここはNG︵その中間はグレーゾーン︶という範囲が合意できればと考えています。--Tamago915 2007年8月30日 (木) 10:31 (UTC)
前者と後者の違いについての見解を求めておられましたので、後者について内容を明らかにしました。後者の内容が明確にならないと比較もできないと思いますが。結論としては、Cave Cattumさんのご意見にもあるように、それぞれの調査の時期、対象がそろっていないかぎり、合成はできないと考えます。---Redattore 2007年8月30日 (木) 12:05 (UTC)
独自の研究にならない要件として、﹁それぞれの調査の時期、対象がそろっていること﹂が求められるという主張でよいでしょうか。--Tamago915 2007年8月31日 (金) 00:43 (UTC)
事例を拝見しましたが、新宿駅に西武新宿駅を含めるといった算出方法が利用者独自のものですので、﹁特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成﹂に該当する独自研究でしょう。--Cave cattum 2007年8月30日 (木) 10:16 (UTC)
ここでは個別の案件では議論したくないのですが、この場合西武新宿駅を除けば特定の観点を推進しないので、独自の研究にならないということですか?そういうものではないと思いますが。--Tamago915 2007年8月31日 (金) 00:43 (UTC)
Cave cattumさんの発言は、新宿だけに限った話ではなくてどの駅とどの駅を同一とすると言った算出方法(決め事)全体(ex:大阪駅と梅田駅、上野駅と京成上野駅など)のことを指しているものと思うのですが。--Shain2006 2007年8月31日 (金) 03:03 (UTC)
そういうことじゃなくて。特定の駅を含めるのが﹁特定の観点を推進する﹂ことになるのなら、除外するのも逆の方向に﹁特定の観点を推進する﹂ことになるでしょう、ということです。なので算出方法全体についてここで議論したいのは、どうやってもダメなのか、何らかの基準をウィキペディアで決めればよいのか、ということです。--Tamago915 2007年8月31日 (金) 03:49 (UTC)
●基本的に独自研究はダメというスタンスが明瞭ではないのか?議論がある投稿のばあい、リバートに対抗する最後の手段は﹁その投稿が直接記載されている情報源を提示すること﹂が原則と理解します。投稿側がリバート側の執拗な除去に対抗するにはコレしかないでしょう。一般にリバートする側は﹁そのような出典が存在しない事を証明する責任は無い︵悪魔の証明︶﹂と思われます。議論が非常に過熱している記事で、出典が提示できないなら投稿を控えておく︵あるいはノートに記載しておく:ノートは出典の有無に拘束されない︶というのは賢明なスタンスかと。--121.118.216.207 2007年8月31日 (金) 06:09 (UTC)
プロジェクトのノートにあった表現を借りれば﹁計算して新たな値を算出﹂することが、複数の資料をまとめる際に恣意的な操作が入る余地があるかどうか、その計算に妥当性があるか、その算出された数値をどのようなものとして掲載するか、さらに、その情報が百科事典としてふさわしいかどうか、ということを考えることになるのだと思います。誰がやっても同じになるような計算で、その計算が示す内容について適切に説明されているなら、﹁情報源に基づいた調査﹂または﹁例外の1﹂となりえるでしょう。
例に挙げられているもので言うと、各国の人口密度は、計算自体は単純で、面積と人口の情報から人口密度を算出するのは問題ないと考えます。各国の情報源が同時期に同条件で調査されたものでなければ、それらを﹁順位付け﹂するには、同時期同条件での調査と同等とみなすための操作・調整が必要でしょう。その妥当性をウィキペディアが評価するのは独自調査と考えられます。この場合は、掲載時に各国の最新のものとして揃えたり、国連などの資料に一覧があればそれを用いたりすることである程度の統一を図り、これを基にしたと明記した上で、﹁得られた数値の密度の高い順に並べた一覧﹂を作成するのならば、その情報が有用であれば、あってもいいかなと思います。
他方、駅の乗降者数については、﹁駅﹂が含む範囲、乗り換えの扱いについてなど、乗降客数の数え方について一般に統一された見解があるということが示されないならば、難しいと思います。﹁新宿駅﹂の範囲をウィキペディアが決定するのは好ましくないでしょう。改札手続きを重視するなら乗降者数は単純和でいいかもしれませんが、駅を中心とした経済圏の規模の目安とするには重複分を適切に除去しなければいけないはずですから、どのように算出したかを明記し、数字の扱いを検証しなければなりません。これは﹁他の情報源から取得した情報やデータの概括、分析、総合、解釈、評価を行うもの﹂に相当する二次資料だと考えます。--Ks aka 98 2007年8月31日 (金) 08:01 (UTC)
ありがとうございます。例示した2件、どちらも独自の研究と見なされる可能性があるが、駅の乗降人員のほうが独自の研究となる要素が多いという理解で間違いはないでしょうか。
複数の資料を基に整理すること自体は問題はないと認識していますし、これは数値データに限らず、どのような資料でも同じだと思います。問題となるのは、単に整理するだけではなく、整理の際に﹁概括、分析、総合、解釈、評価﹂を行って二次資料を作成してしまうことですね。乗降人員でいうと﹁新宿駅﹂の範囲を規定したり、年度の異なる資料を単純に合計したりする部分、人口密度でいうと国土面積に淡水部を含めたり、極端に狭い国家や地域をランキングから除外したりする部分が当てはまるのだろうと思います。
どこまでが単なる﹁整理﹂なのか、ということを議論してもよいでしょうか。複数の資料の値を1つの記事に書くことは禁止されない、というのは問題ないと思います。そこから第3の値を導出することで、すでに問題になってくるのでしょうか。Ks aka 98さんがすでに書かれていますが、導出の過程が明確で、かつ妥当性があれば問題ないと思われますが、ここは個別に判断するしかなさそうですし、個別のノートで具体例に移った議論を行ったほうがよいのかもしれません。--Tamago915 2007年8月31日 (金) 09:31 (UTC)
なぜ独自研究は載せないかで信頼出来る情報とありますが、他人の研究を載せた場合やっぱり言葉を換えたとしても著作権侵害の疑いは免れませんね。独自研究であってもいろんな人は真偽を試し直すべきとこは直すのだから差し支えないと思います。--195.93.60.74 2007年9月7日 (金) 15:06 (UTC)
同一出版物内の記述ごとの信頼性[編集]
元ネタはこちらです。検証可能性の議論とも関連しますが、ある新聞が信頼できる資料である仮定したとき、そのうちのコラムやその他特定の記事は信頼できる資料にはならない︵独自研究をしないに信頼できる資料に挙がっているのは報道であり、コラムは報道ではないから信頼できる資料には当たらない、故に独自研究をしないにより公式に排除されている︶といえるものでしょうか。検証可能性に記載されているように、個別の記事の信頼性を検証すること自体が独自研究にあたるので適当ではない、と考えられるのですが。--Mujaki 2007年12月3日 (月) 17:13 (UTC)
コラムと報道の違いというのは、ある学説とある学説とか、同じ新聞で朝日と読売どっちの記事を信頼するか、よりは、楽に判断ができると思います。コラムは誰かの主張として記載するものですし、事実の根拠として用いる場合でも、出典を明確に示すことが望ましいでしょう。
元ネタを見ると、それはあんまり関係ないんじゃないかなとも思います。もっとシンプルに、﹁派生した出来事﹂を載せるかどうか、2ちゃんほかでの掲示板での盛り上がりとニコ動ほかでの普及が百科事典の記述に値するかどうか、で考えた方がよさそう。
掲載するなら、出典という意味では、﹁スクールデイズ﹂第12話の代名詞であることの用例を示すもの、挙げられている意味、用法で用いられている実際の文章、﹁Nice boat商法という派生語﹂の存在と語源を説明しているもの、その当時のスレ、﹁Nice boat.﹂、その書き込みへのレスが書かれたスレのURLなどは欲しい。--Ks aka 98 2007年12月3日 (月) 17:47 (UTC)
コメントありがとうございます。諸般の事情で遅れまして反応が申し訳ありません。
私もその議論は﹁もっとシンプル﹂だと思うのですが、議論は停滞している理由の一つが、その遙か手前の段階の出典︵コラム︶の信頼性ですので、一つずつ論点を整理していこうかと思いました。また、どこかで︵Wikipediaは何でないかの点だったか︶出典のある論評こそ記載すべきのような趣旨の逆の意見も見かけたように思いますので、せっかくの機会であるし、この際確認しておいた方がいいかなと考えました。今、件の議論を見ると、本義論に関連して、︵同じアニメ誌でも︶﹁インタビューはOK。読み物はダメ﹂という意見も出ていますね。
なお、件の議論で比較的最近問題となったのは、この版の﹁最終話の放送休止﹂の記述で、記述のほぼすべてに出典が示されていますが、読売新聞や朝日新聞のコラムを出典としていたことが排除の理由となった一因です。--Mujaki 2007年12月18日 (火) 15:52 (UTC)
「最近の出来事」除去の提案[編集]
最近の出来事はポータルになったので、記事の例として挙げるのは適切ではありません。除去を提案します。
英語版の対応する節では、だいぶ前に記事の例は一切載せなくなったようです。--emk 2007年12月13日 (木) 13:07 (UTC)
●すみません。具体的にどの箇所を指しているのでしょうか?--121.112.181.219 2007年12月14日 (金) 02:06 (UTC)
Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料の、﹁アップルパイや最近の出来事などが、この例として挙げられます。﹂という文のことを指したつもりでした。--emk 2007年12月14日 (金) 12:19 (UTC)
例文の変更[編集]
#同一出版物内の記述ごとの信頼性からの派生でもありますが、信頼できる資料の説明文にある例示︵﹁例えば…﹂︶の一節について、検証可能性の例示では﹁記事﹂としていますので、次のように変更したいと思いますが、問題はありますでしょうか。
●︵変更前︶…しかし、同じ言明が﹃ニューヨーク・タイムズ﹄で報道されたのであれば…
●︵変更後︶…しかし、同じ言明が﹃ニューヨーク・タイムズ﹄の記事なっているのであれば…
--Mujaki 2007年12月22日 (土) 07:03 (UTC)
- (報告)特に反対もないようですし、検証可能性にあわせる軽微な変更ですので24時間ルールで変更しました。--Mujaki 2007年12月23日 (日) 16:58 (UTC)