﹁ポップ﹂とは、閉塞や内省、小さなコミュニティにとどまらない、外側へと向けた指向性とその力だ。
2000年代では、漫画、アニメ、ライトノベルなど、かつてサブカルチャーであったものが、文化的にも商業的にも普遍化していった。そんな状況からか、現在はサブ︵副次的︶なものではなくなったそれらのコンテンツには、﹁ポップカルチャー﹂という言葉が代わりにあてられる機会が増えていく。
戦後日本において奇形的な進化を遂げてきたサブカルチャーたちが社会と接続して﹁ポップ﹂になる直前の分水嶺として発生したムーヴメントが、﹁セカイ系﹂と呼ばれた作品群だ。﹁セカイ系﹂という言葉はインターネット掲示板が初出であるとされるが、95年の﹃新世紀エヴァンゲリオン﹄の影響下にある作品という揶揄から﹁ポスト・エヴァンゲリオン症候群﹂などとも呼ばれていた。
セカイ系の代名詞的作品に度々挙げられる、高橋しん『最終兵器彼女』
そんな﹁セカイ系﹂だが、当時サブカルチャー批評を行なっていた哲学者の東浩紀によって﹁主人公︵ぼく︶とヒロイン︵きみ︶を中心とした小さな関係性︵﹁きみとぼく﹂︶の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、﹁世界の危機﹂﹁この世の終わり﹂などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと﹂と定義されていくことになる。
﹁具体的な中間層﹂とは、国家や政治機関、あるいは社会そのものを指す。つまり、﹁ぼく﹂と﹁きみ﹂の関係や感情そのものが、具体的な社会に言及されることのないまま世界の未来や崩壊に直結する、といった作品群だ。
もちろんその類型は作品ごとによって細かくは様相が違うものの、﹁ぼく﹂﹁きみ﹂﹁世界﹂という軸で語られる物語は閉塞感や鬱屈といったものの象徴として描かれることが多く、﹁ポップ﹂というよりは﹁サブカル﹂的であったし、そんなスタイルがオタクたちの心をつかみ、﹁セカイ系﹂こそが日本のエンターテイメントの極北ともいえるものとなっていた。
例えば、2016年﹃君の名は。﹄で一躍国民的アニメーション作家となった新海誠もかつては﹁セカイ系﹂作家の代表格として知られていた。自主制作という点でも評価されたデビュー作﹃ほしのこえ﹄をはじめ、彼の物語は﹁無能な僕﹂﹁全能感のある君﹂﹁セカイ﹂の三項対立で進んでいく。
﹁セカイ系﹂は、世界と自己との間に横たわる断絶や違和感を内在化させることで、逆説的に内向するような想像力だったのに対して、新海誠が﹃君の名は。﹄で描いたのは、屈託のない全能感、運命があると信じ世界と自分が完全に直結する物語だった。
そしてその作品が健やかに少年少女から圧倒的支持を得たということは、やはり﹁セカイ系﹂に代表される一つの時代の終わりとして象徴的な出来事といえる。
いま﹁セカイ系﹂の作品を振り返ってみると、﹁ポップ﹂と﹁サブカル﹂の間でもがく真摯さのようなものが感じられる。現実を前にした無力感を意識/無意識に関わらず想像力の足がかりとしてきた物語の一群だったが、すべてが急速に均質化した今では、その屈託こそがもはや消費者にとってのリアリティを失っているのもまた事実だ。すべてがフラットに、ネットワークで社会が繋がっていくほんの少し前の時代の作品群、それが﹁セカイ系﹂なのかもしれない。
﹁平成展2000-2009﹂をめぐる4つの軸について
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