スターリン(読み)すたーりん(英語表記)Иосиф Виссарионович Сталин/Iosif Vissarionovich Stalin

デジタル大辞泉 「スターリン」の意味・読み・例文・類語

スターリン(Iosif Vissarionovich Stalin)

 
18791953Dzhugashvili1936  

スターリン(Stalin/Сталин)

ブルガリア北東部の都市バルナの、共産党時代の1949年から1956年までの名称。旧ソ連の最高指導者スターリンの名にちなむ。

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精選版 日本国語大辞典 「スターリン」の意味・読み・例文・類語

スターリン

 

(一)( Iosif Vissarionovič Stalin = ) 
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「スターリン」の意味・わかりやすい解説

スターリン
すたーりん
Иосиф Виссарионович Сталин/Iosif Vissarionovich Stalin
(1879―1953)


ДжугашвилиDzhugashvili12211912191319174()8192131051922

 19241513192519271930192019341936

 西調193919411945192219431945195335

 

13195221963319671985

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百科事典マイペディア 「スターリン」の意味・わかりやすい解説

スターリン

 
190219121922退1920193619301936193819391941219451956
KUTV=  

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改訂新版 世界大百科事典 「スターリン」の意味・わかりやすい解説

スターリン
Iosif Vissarionovich Stalin
生没年:1879-1953


Dzhugashvili19011905121913

 1917︿19A.G.Shlyapnikov22︿

 ︿242526-27︿28調291928101

 29M.P.Tomskii2950調3417使336︿

 398416222F.D.495319533︿

 1924193819501952


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スターリン」の意味・わかりやすい解説

スターリン
Stalin, Iosif Vissarionovich

 
[]1879.12.21. 
[]1953.3.5. 
 I.V.Dzhugashvili18949899 1912 () 172224 V.I.L. G.E.L.B.2829N.I.A.I.M.P.2853641253 Marksizm i natsionalno-kolonialnyi vopros (191213)  Voprosy leninizma (26)  Ekonomicheskie problemy sotsializma v SSSR (52)   

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「スターリン」の解説

スターリン
Iosif Vissarionovich Stalin (本名 Dzhugashvili)


18791953

1902122224退20退305356

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旺文社世界史事典 三訂版 「スターリン」の解説

スターリン
Iosif Vissarionovich Stalin
本名I. V. Dzhugashvili

1879〜1953
旧ソ連の政治家・ソ連共産党の最高指導者
グルジア生まれ。19歳で革命運動にはいり,逮捕・流刑・逃亡を重ねた。『マルクス主義と民族問題』を著し,レーニンに認められて党中央委員となり,スターリン(鋼鉄の人)のペンネームで理論活動を展開,党の機関紙「プラウダ」の編集にも携わる。ソヴィエト政権の成立後,民族人民委員・初代党書記長となり,1924年レーニンの死後は,トロツキー・ジノヴィエフ・ブハーリンら党内反対派を抑えて一国社会主義を推進し,数次の五か年計画によって社会主義建設に成果を収めた。1936年スターリン憲法を制定して社会主義の勝利を宣言したが,一方で反対派を粛清で大量処刑した。第二次世界大戦ではヒトラーの攻撃を退けて祖国防衛に成功,戦後ソ連の国際的地位を高めたが,死後の1956年,彼の秘密的・専制的傾向はフルシチョフによりスターリン主義として批判された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「スターリン」の解説

スターリン
Iosif Vissarionovich Stalin

1879.12.9~1953.3.5

ソ連共産党の指導者。グルジア出身。神学校在学中にロシア社会民主労働党に入党,1912年党中央委員,22年共産党と改称した後,初代書記長となる。24年のレーニンの死後,トロツキー,ジノビエフ,ブハーリンなどを追放して最高実力者となり,急速な工業化と集団化を推進。30年代からは大粛清を強行して独裁的地位を築いた。53年の死後,その個人崇拝や理論に対する批判がなされた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「スターリン」の解説

スターリン
Iosif Vissarionovich Stalin

1879〜1953
ソ連の政治家
グルジアで靴屋の子として生まれる。1917年のロシア革命で活躍した。レーニンの死後権力をにぎり,粛清として多数の対立者を弾圧した。'28年以後五カ年計画を主導。第二次世界大戦中の'45年2月ヤルタ会談,7月ポツダム会談に出席,戦争の終結について協議した。戦後は冷戦の立役者となった。

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世界大百科事典(旧版)内のスターリンの言及

【コムニズム[峰]】より


Pik Stalina7495m

【一国社会主義】より

…しかし,第1次世界大戦後のヨーロッパ諸国における革命運動が後退すると,革命ロシアは孤立の中で国内建設を余儀なくされた。このような状況の中で,1924年にスターリンによって唱えられたのが一国社会主義論である。彼はこの理論をレーニンに由来するものとしているが,むしろレーニンが革命時に想定していたのとは異なった新たな状況の産物とみるべきであろう。…

【エイゼンシテイン】より

…しかし,グレゴリー・アレクサンドロフと共同で監督した革命10周年記念映画《十月》(1927)は,製作中にトロツキー解任などの政変があって一部修正を強いられ,公開が遅れる。中断していた農業の社会主義化を描く《全線》も完成したものの,スターリンの批判によって公式の農業政策をとり入れたものに改変を命じられ,《古きものと新しきもの》と改題されて29年にようやく公開の運びとなる。その年エイゼンシテインはティッセとアレクサンドロフを伴ってヨーロッパへ出発し,世界映画史に特記されるローザンヌの〈国際アバンギャルド映画会議〉に出席。…

【共産党】より


 1847()1191711193()100︿2

【個人崇拝】より


︿

【コミンテルン】より

…1923年1月のルール占領に端を発する危機的状況がドイツ共産党とコミンテルンによって効果的に利用されることなく去り,資本主義の相対的安定期に席をゆずるとともに,コミンテルンのあり方も大きく変貌を遂げていく。24年6月から7月にかけて開かれたコミンテルン第5回大会では,レーニンの姿はすでに見られず,ボリシェビキ党内の指導権争いでいちはやく有利な地位を占めたスターリンによって,〈ボリシェビキ化〉が提唱され,コミンテルンにおける党内民主主義の制限,ソ連の対外政策同調化への圧力が強まった。
[植民地・民族問題]
 コミンテルンは,ヨーロッパ中心主義を脱却できなかった第二インターナショナルとは違って,植民地,従属諸国における民族運動のエネルギーを高く評価し,これを先進国における変革に連結する反帝世界革命の構図をえがいていた。…

【コミンフォルム】より

…独自の社会主義への道は,ソ連社会主義モデルの信奉に引き戻され,それに抵抗したユーゴスラビア共産党は,48年6月破門された。チトーとユーゴスラビア共産党はファシズムの共犯者,アメリカ帝国主義のスパイと非難されながらも,スターリンの要求に屈せず独自の道を歩んだ。ソ連共産党が和解の手を差しのべたのは,スターリンの死後であり,第一書記に就任したフルシチョフは55年5月ベオグラードを訪問,ユーゴスラビア共産党に加えられた数々の侮辱を詫びた。…

【上部構造】より

…しかし,上に指摘した用語法の不統一が現に見られるゆえんでもあるが,マルクス本人としては上部構造という言葉を必ずしも十全な自覚をもって術語的に用いているわけではない。 なお,スターリンの《マルクス主義と言語学の諸問題》(1950)におけるある立論が機縁になって,言語や科学は上部構造には属さない(もちろん下部構造にも所属しない)という議論が,一時期有力になった経緯もあり,マルクス主義者たちのあいだでも,上部構造という概念は確定的に定義されるには至っていない。史的唯物論【広松 渉】。…

【スターリン主義】より

…ソビエト共産党書記長になったスターリンによってもたらされた思想・体制・政策の総称。この呼称はトロツキーと彼の支持者が,レーニン死後のスターリン指導下のソビエト体制を批判的に論ずる時に使用したものであるが,スターリン批判(1956)以降は西側世界でも否定的意味をこめて,より広義に使われるようになった。…

【ソビエト連邦】より

…非政治的なものであれば,さまざまな社会団体が活動を認められた。 レーニンとスターリンは22年のソ連邦の成立をめぐって意見が対立した。スターリンは初め,各共和国を自治共和国としてロシア共和国に吸収する案すなわち〈自治化〉案を推進し,一方,レーニンは,ロシア共和国を含めて,すべての共和国は新しい〈同盟〉の中に同等の権利をもって加入すべきであるとする〈ソ同盟〉案を出した。…

【ソビエト連邦共産党】より


 22

【大粛清】より

…1930年代後半のソ連邦においてスターリンが行ったソ連邦共産党幹部や軍人,知識人,大衆に対するテロルを指し,主として〈西側〉の諸国で用いられる呼称。粛清とは元来プロレタリアの前衛党の党員としてふさわしくない人物を党から除名することを意味するもので,テロルとは無関係な概念であった。…

【中ソ友好同盟相互援助条約】より

…中華人民共和国の建国早々,毛沢東主席は主席初の外国訪問として,1949年12月21日モスクワで開催予定の,スターリン首相70年誕生祝賀宴に参加のため12月16日訪ソ,その後スターリン首相と中ソ両国の友好団結について,年越しの長期会談に入った。翌50年1月には中国の周恩来首相も会談に加わり,50年2月14日ようやく,毛沢東,スターリン両首脳立会いの下に,期限30ヵ年,全文6ヵ条から成る〈中ソ友好同盟相互援助条約〉の調印がおこなわれた。…

【民族資本】より

… 両大戦間期には,社会主義革命を指向する運動と民族資本の主導する民族主義との関係をめぐる理論領域が複雑にからみあっていた。第2回コミンテルン大会におけるM.N.ローイ(1887‐1954)とレーニンとの対立,トロツキーとスターリンとの対立がこの問題把握の難しさを示している。レーニン,スターリンは民族資本の運動を支援することによって,社会主義的勢力の成熟を期待した。…

【レーニン主義】より

…この革命的マルクス主義の潮流を〈レーニン主義〉の名で呼ぶことは,レーニンの没後に始まった。ブハーリンジノビエフらもその定式化を試みたが,スターリンが1924年4月スベルドロフスク大学で行った講演〈レーニン主義の基礎について〉は最も包括的なものであった。スターリンがソ連共産党の唯一の指導者になるにつれて,このスターリンの定式化が唯一の正統的なレーニン理解とされ,全世界に広まった。…

※「スターリン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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