ティルジット条約(読み)てぃるじっとじょうやく

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ティルジット条約」の解説

ティルジット条約(ティルジットじょうやく)
Tilsit


18077131(1)(2)(3)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ティルジット条約」の意味・わかりやすい解説

ティルジット条約
てぃるじっとじょうやく


180713Tilsit180721()7()

 

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ティルジット条約」の意味・わかりやすい解説

ティルジット条約
ティルジットじょうやく
Treaty of Tilsit

 
18077131(1) (2) (3) 4 2000(4)   

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百科事典マイペディア 「ティルジット条約」の意味・わかりやすい解説

ティルジット条約【ティルジットじょうやく】

1807年イェーナの戦に大勝したナポレオン東プロイセンのティルジットTilsitでロシア,プロイセンと結んだ平和条約。フランスは,エルベ左岸のプロイセン領を割取してウェストファーレン王国を,旧ポーランド領にはワルシャワ公国を建て,ダンチヒ(クダンスク)を自由市化。プロイセンはこのほか膨大な償金と軍備制限を課され,ロシアは大陸封鎖協力を約束した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ティルジット条約」の解説

ティルジット条約
ティルジットじょうやく
Tilsit

1807年,ナポレオン1世とロシア皇帝アレクサンドル1世およびプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世の間に結ばれた平和条約
ティルジットはニーメン川左岸の都市。イエナの戦いなどでプロイセン・ロシア連合軍を破ったナポレオンは,この条約でプロイセン領土の大半を奪い,その西隣にウェストファリア王国を,東隣にワルシャワ大公国を建て,大陸におけるフランスの支配権を確立した。プロイセンはこの屈辱後,国民意識にめざめ,多くの国政改革を行った。

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世界大百科事典(旧版)内のティルジット条約の言及

【対仏大同盟】より

…第3次は,1805年にイギリス,オーストリア,ロシア,スウェーデンなどの間で結ばれたが,オーストリアとのプレスブルク条約(1805)によって解消した。第4次は,06年にイギリス,プロイセン,ロシアなどの間で結ばれたが,プロイセン,ロシアとのティルジット条約(1807)によって解消した。第5次は,09年にイギリス,オーストリアの間で結ばれたが,オーストリアとのシェーンブルン条約(1809)によって解消した。…

【プロイセン改革】より


1807222=SteinHardenbergsche Reformen

 1806貿

※「ティルジット条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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