デジタル大辞泉
「ナポリ王国」の意味・読み・例文・類語
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ナポリ‐おうこく‥ワウコク【ナポリ王国】
- 一二八二年アンジュー家のシャルルがシチリアを失って、南イタリア本土だけを領有することになったときに成立した王国。一四四二年シチリア王国と合体したが、一七〇七年、オーストリア領に編入、三四年以後はスペインの支配をうけた。ナポレオン時代にフランス領となり、一八一五年、ブルボン王朝の復帰後再びシチリア王国と合邦して翌年「両シチリア王国」と称し、ナポリ王国独自の歴史を終える。
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ナポリ王国 (ナポリおうこく)
13世紀末から19世紀初頭までイタリア半島南部を支配した王国。11世紀末から12世紀にかけて,イタリア半島南部とシチリア島はノルマン人によって征服され,結合された︵1140︶。こうして成立したシチリア王国はホーエンシュタウフェン家︵シュタウフェン朝。1194-1266︶,アンジュー家︵1266-1435︶と受け継がれた。しかし1282年の︿シチリアの晩鐘﹀事件によって,シチリア島はアラゴンの手に渡った。この結果,ナポリを首都とし半島南部を支配する︿ナポリ王国﹀が成立した。しかし,アンジュー家はあくまでシチリアに対する支配権を主張して︿シチリア王﹀を名のっていたので,︿ナポリ王国﹀は通称にすぎない。アンジュー家は教皇の封建臣下となり,イタリアにおけるゲルフ党の中心として大きな勢力を振るった。14世紀初頭のロベルトRoberto王の時代が最盛期である。14世紀後半に一時王位継承の争いによって国勢が衰えたが,ラディズラオLadislao d'Angio王︵在位1386-1414︶のときには領土を拡大し,北の教皇領を侵略した。その死後ナポリ王国の政治は再び乱れ,アラゴン王アルフォンソ5世によって征服された︵1442︶。彼はすでにアルフォンソ1世としてシチリア王を兼ねていたので,︿両シチリア王﹀を称した。しかし両国が再統合されたわけではなく,その後もナポリ王国はシチリアとは別の国家とみなされ,事実上アラゴン王家の親王領となった。正式名称は︿海峡のこちら側のシチリア王国﹀である。アルフォンソ1世の時代︵1442-58︶,ナポリ王国はイタリア半島内の強国として国際政治に大きな発言力をもっていた。しかし,国内では大土地所有︵ラティフンド︶に基盤をもつ大貴族層︵バローネ︶の勢力が強大であった。アルフォンソ1世の死後,庶子フェランテが王位を継ぎ,フィレンツェ,トルコとの対立,大貴族層の反乱に直面しながら権威を確立しようと努力した。
15世紀末からフランスがアンジュー家以来の権利を主張してナポリを支配しようとした。シャルル8世の遠征︵1494-95︶に続いて,ルイ12世は1501年にナポリへ侵入し王国を手中に収めたが,介入したスペイン軍によってわずか3年でナポリを追われた。1504年にスペイン,フランス両国間で妥協が成立し,スペインのフェルナンド2世がナポリ王に即位した。こうしてナポリ王国は政治的独立性を失い,スペインの総督によって統治されるようになった。スペインの支配は1707年まで続くが,この間にナポリ王国は一種の植民地となり,一次産品︵穀物,絹,皮革︶を輸出し,工業製品を輸入するという形でスペイン経済の中に組みこまれた。大土地所有者による輸出向けの大規模な小麦栽培や牧羊が発展する一方で,一般の農民は困窮した。多数の貧民が首都ナポリに流入し,都市人口は急速に増大した。国家の統制はゆるみ,社会秩序は混乱し,農村では匪賊が横行した。彼らは単なる盗賊ではなく,中央権力に対する反抗者であり,しばしば地方の農民や領主がつくり出している自生的な社会秩序に結びついていた。ナポリではマザニエロの一揆︵1647︶のような下層民の反乱が生じた。
スペイン継承戦争が始まるとナポリ王国はオーストリアの支配下に入ったが︵1707︶,ポーランド継承戦争の結果,スペイン王フェリペ5世︵ブルボン家︶の子カルロ7世がナポリおよびシチリア王に即位︵1734︶,トスカナの法律家タヌッチBernardo Tanucci︵1689-1782︶を宰相に起用して啓蒙主義的な政策を行った。カルロ7世がスペイン王︵カルロス3世︶に即位︵1759︶した後を継いだフェルディナンド4世Ferdinando Ⅳの時代には,同じくタヌッチの指導下でP.ジャンノーネの政治思想やA.ジェノベーゼの経済思想の影響を受けた政策が実行された。それは反貴族・反教権的な指向をもち,1768年にはイエズス会士の追放が行われた。穀物独占の廃止,関税の引下げ,ギルド規制の制限など自由主義的な経済政策が試みられたが,結局大貴族の特権を奪うことはできず,経済を立て直すことは不可能だった。フランス革命に際して,ナポリのブルボン家は革命政府に反対する立場をとりイギリスに呼応して参戦したが,ナポレオンのイタリア侵入によってシチリアへ亡命した︵1799︶。こうして成立したナポリ共和国︵パルテノペーア共和国︶はわずか6ヵ月しか続かず,ブルボン王家の復帰をみた。99年の末ナポレオンはイタリアの再征服を開始し,マレンゴの戦でオーストリア軍に勝利してその支配を確実にした。フェルディナンド4世は再びシチリアへ亡命し︵1806︶,ナポリ王国はジョセフ・ボナパルト︵1806-08︶,続いてミュラGioacchino Muratが支配した︵1808-14︶。この︿フランス支配時代﹀にフランス革命の主要な成果である,封建制の廃棄,教会財産の売却,行政・司法・財政組織の改革などがナポリ王国でも行われた。ナポレオンが没落するとミュラはイタリア王位を獲得しようと画策したが失敗,ウィーン会議の決定によって旧体制が復活することになり,フェルディナンド4世が復帰した。彼はナポリとシチリアを合わせて︿両シチリア王国﹀とし,フェルディナンド1世︵在位1816-25︶を称した。こうしてナポリ王国の歴史は終わった。
→シチリア王国
執筆者‥清水 廣一郎
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ナポリ王国
なぽりおうこく
13世紀末から19世紀初頭までイタリア半島南部に君臨した王国。12世紀にノルマン人が建設したシチリア王国は、半島南部とシチリアからなり、シチリア王に統合された王国であった。その後、この王位はホーエンシュタウフェン家、ついでアンジュー家に受け継がれたが、1282年の乱︵﹁シチリアの晩鐘﹂︶により、シチリアの支配権はアラゴン家の手に渡り、アンジュー家の支配は半島南部に限られることになった。両家ともシチリア王の称号を手放そうとしなかったので、アンジュー家支配下の半島南部は首都名ナポリNapoliを冠してナポリ王国とよばれるようになった︵正式には1759年︶。その後、1442年にアラゴン家のアルフォンソ5世がアンジュー家よりナポリを奪い両王国を結合して両シチリア王を名のった。15世紀末から16世紀初めにかけて、ナポリ王国はフランスとスペインの角逐の場となり、豪族たちの離反も手伝って支配権はめまぐるしく交替したが、結局スペインの支配下に入った。
以後1世紀にわたり、ナポリ王国はスペイン総督の下で政治的独立性を失い、植民地経済の犠牲を強いられた。この時代には民衆の大反乱が幾度か生じた。ナポリ王国は、スペイン継承戦争︵1701~14︶の最中の1707年以来オーストリアの支配下に置かれたが、1734年スペイン王フェリペ5世の子ドン・カルロスによって奪取された。1738年、この王の下で独立国南イタリア王国が誕生。以後、スペイン系ブルボン王朝の諸王が両シチリア王の称号でナポリに君臨する。この時代には、王家と啓蒙(けいもう)的市民層の協力関係がみられたが、フランス革命の勃発(ぼっぱつ)︵1789︶とともにこの関係は破れた。ナポリのブルボン政府はイギリスと同盟を結んで対仏戦争に参加したが、ナポレオン1世のイタリア侵入によってシチリアへ亡命した。1799年、ナポリ王国にかわってパルテノペア共和国が発足したが、数か月で倒れ、ブルボン家が復帰した。しかし、イタリア遠征にふたたび着手したナポレオン1世は、1806年ナポリ王国を征服すると、最初兄ジョセフJoseph Bonaparte︵在位1806~08︶を、ついで妹婿ミュラJoachim Murat︵在位1808~14︶将軍を王位に据えた。このフランス支配下で王国の近代化は著しく促進された。この間シチリアにふたたび亡命していたブルボンのフェルディナンド4世FerdinandoⅣ ︵在位1759~1806、1815~25。両シチリア王国としてはフェルディナンド1世、在位1816~25︶は、ナポレオン1世没落後、ナポリに帰国し、1816年旧ナポリ王国を廃止して新しく両シチリア王国を樹立した。
﹇重岡保郎﹈
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ナポリ王国
ナポリおうこく
Regno di Napoli
ナポリを中心として南イタリアを支配した王国 (1282~1815) 。12世紀のロジェール2世以来,シチリア王国がシチリアと南イタリアを領有していたが,1282年の﹁シチリアの夕べの祈り﹂事件でシチリア王位についていたアンジュー家が追放されて,シチリア島は新たなシチリア王 (アラゴン家ピエトロ1世) に支配されることになった。このため南イタリアは旧シチリア王国から分離して新しくナポリ王国となり,アンジュー家が支配した。ロベルト (在位 1309~43) のもとで繁栄をみたが,彼の没後はアンジュー家の内紛が続き,1442年アラゴン王兼シチリア王アルフォンソ5世 (度量王)に征服された。アルフォンソ5世 (ナポリ王としては1世) の死後,ナポリ王は庶子のフェルディナンド1世が継いでシチリア王と分離されるが,16世紀初めからスペイン王がシチリア王とナポリ王を兼ねる体制が確立した。ナポリはいわばスペイン属領として収奪の対象とされたため,不満がつのり,1647年のマザニエッロの反乱などが起った。18世紀初めのスペイン継承戦争の結果,オーストリアが支配権を握るが,ポーランド継承戦争中の 1734年スペインのブルボン家のカルロス (のちのスペイン王カルロス3世) がオーストリアを破り,38年ウィーン平和条約でシチリア王とナポリ王への即位を認められた。これ以降スペイン系ブルボン朝がナポリ王とシチリア王を兼ねて支配するが,国制上は両国それぞれ別個の存在となっていた。99年一時パルテノペア共和国が成立し,1806年にナポレオン1世の兄ジョゼフ (1808年からミュラー) を王とするフランス支配のナポリ王国ができてブルボン朝はシチリアに逃れた。フランス支配の時期に封建制の廃止が宣言された。15年フェルディナンド4世がナポリに復帰するが,彼はナポリ王国とシチリア王国を合併して,16年両シチリア王国をつくりフェルディナンド1世と改称した。形式的にはナポリ王国の歴史はここで終るが,ブルボン朝支配の両シチリア王国は60年に G.ガリバルディによって解体され,住民投票の結果サルジニア王国に併合されることになった。
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ナポリ王国(ナポリおうこく)
1282~1815
シチリアの晩鐘の乱でアンジュー家のシャルルがシチリアを失い,南イタリア本土だけに君臨したとき,事実上成立。ロベルト王(在位1309~43)の治下に最盛期。グェルフ派の首領として活躍した。1435年アンジューの王統が絶え,アラゴン王アルフォンソ5世がシチリア王国と併有し,いわゆる両シチリア王国を復活。1799年フランス革命軍の占領下にパルテノペ共和国を建国したがすぐ倒れた。ナポレオン体制下で,1806~08年彼の兄ジョゼフが,08~14年部将ミュラーがナポリ王として近代化を進めた。15年の王政復古でスペイン系ブルボン王朝が復帰し,再びシチリア王国と合邦した。
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ナポリ王国
ナポリおうこく
1282〜1816
イタリア半島南部,ナポリを中心に成立した王国
南イタリアを支配していたアンジュー伯は,「シチリアの晩鐘」事件でシチリア島を失ったので,残った半島部をナポリ王国に改組した。1443年アラゴン王国によって征服されたが,その後,この領有をめぐってスペイン・フランスが争った。1503年以降,スペインに支配されたが,1735年ブルボン家に王位を奪われた。1806年ナポレオン1世に征服されて彼の兄ジョゼフ=ボナパルトが王となり,さらにナポレオン1世の義弟ミュラに受けつがれた。1815年ウィーン会議の結果,ブルボン家のフェルディナントが王位を回復し,翌年ナポリとシチリアを合わせて両シチリア王国を建て,単独でのナポリ王国は消滅した。
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世界大百科事典(旧版)内のナポリ王国の言及
【カンパニア[州]】より
…沿岸諸都市はシチリアや東方との交易により繁栄し,サレルノの医学校の発展,ナポリ大学創立(1224)など,ノルマン諸王の政策とあいまって黄金期を築いた。1442年にフランスのアンジュー家からスペインのアラゴン王家に支配が移ると,[ナポリ王国]はヨーロッパでも最も華やかな宮廷の一つとして,南イタリアのルネサンスが開花。両シチリア王国を経て,1860年イタリア王国に統一されたが,新国家建設のための重税と資本の流出などが,今日の南部問題の一因となっている。…
【リソルジメント】より
…ジャコビーノ革命は1796年のピエモンテから始まって99年のナポリ革命に至るまで,北から南へと継起したが,結局はすべて失敗に終わった。 このあとイタリア半島はナポレオン体制のもとに置かれ,北・中部はフランスに併合された地域を除いてナポレオンを王とするイタリア王国に,南はジョゼフ・ボナパルト,次いでミュラーを王とする[ナポリ王国]に編成された。このフランス支配期にナポレオン法典の諸原則が導入されて,市民的諸改革が行われた。…
※「ナポリ王国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」