日本大百科全書(ニッポニカ) 「マルクス・アウレリウス」の意味・わかりやすい解説
マルクス・アウレリウス
まるくすあうれりうす
Marcus Aurelius Antoninus
(121―180)
ローマ皇帝︵在位161~180︶。五賢帝の最後の皇帝。スペイン出身の家柄で、同郷のハドリアヌス帝に目をかけられ、その命令で次帝アントニヌス・ピウスの養子とされた。ピウス存命中から政治を補佐し、その死後帝位を継ぐ。義弟ルキウス・ウェルスLucius Verus︵在位161~169︶を共治帝とした。当初より東方のパルティア、北方のゲルマンと戦い、166年北イタリアにまで侵入したマルコマンニ人を迎え撃ち、170年に勝利を収めた。この間パルティア侵入を防戦したウェルスの軍隊が持ち帰った疫病が大流行し、無数の人命が失われ、また175年にはシリア、エジプトでアウィディウス・カッシウスGaius Avidius Cassius︵130―175︶が反乱を起こすなど、帝国の衰運が目だち始めた。彼は騎士の人材を抜擢(ばってき)したり、皇帝財産を競売に付して戦費に回すなどの策をとったが、総じて保守的で、果断な行政家ではなかった。カッシウスの乱に際し、急遽(きゅうきょ)まだ若い実子コンモドゥスを共治帝とし、それまでの慣例に反したことも失策に数えられる。なお、中国の﹃後漢書(ごかんじょ)﹄に、使者を中国に派遣したと伝えられる大秦(しん)王安敦(あんとん)とは、彼をさすとみられる。
マルクス・アウレリウスは、早くよりギリシア・ストア哲学に傾倒して雄弁家フロントらに学び、陣中で書き綴(つづ)った﹃自省録﹄は後期ストア哲学の代表作である。そのなかで彼は、宇宙の理性に従うことを旨とし、謙虚・寛容と神への敬虔(けいけん)、平静さを称揚しているが、その筆致はきわめてペシミスティックである。178年再度侵入したマルコマンニを討つべく遠征し、その最中ウィーンの近くで病没した。彼の﹁マルコマンニ戦争﹂を浮彫りで描いた記念柱と彼の騎馬像がローマ市内に現存している。
﹇松本宣郎 2015年2月17日﹈
﹃神谷美恵子訳﹃自省録﹄︵岩波文庫︶﹄
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