デジタル大辞泉
「中井竹山」の意味・読み・例文・類語
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なかい‐ちくざん【中井竹山】
(一)江戸中期の儒者。大坂の人。名は積善、字(あざな)は子慶。通称は善太。甃庵の長子。五井蘭洲に師事し、弟の履軒とともに朱子学を学び、懐徳書院院長となった。混沌社の文人とも詩文の交わりを持ち、﹁草茅危言﹂五巻を著わして松平定信に献じた。ほかに﹁逸史﹂﹁詩律兆﹂﹁奠陰集﹂など。享保一五~文化元年︵一七三〇‐一八〇四︶
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中井竹山
なかいちくざん
(1730―1804)
江戸中期の儒学者。享保(きょうほう)15年大坂に生まれる。通称は善太。名は積善。字(あざな)は子慶(しけい)。父は懐徳堂(かいとくどう)の2代学主中井甃庵(しゅうあん)︵1693―1758︶。弟は履軒(りけん)。五井蘭洲(ごいらんしゅう)に師事し、程朱(ていしゅ)学を主とする道学を学ぶが、三宅石庵(みやけせきあん)︵1665―1730︶や父甃庵の兼学性も受け継いだ。1782年︵天明2︶懐徳堂の4代学主となり、懐徳堂の最盛期を築く。
1784年、荻生徂徠(おぎゅうそらい)を批判した﹃非論語徴(ひろんごちょう)﹄を著し、1788年の大老松平定信京坂巡視のおりには経義の講義をし、定信の諮問(しもん)に答えて1791年︵寛政3︶、近世の代表的な経世論﹃草茅危言(そうぼうきげん)﹄を著した。一方、1792年の大火で全焼した懐徳堂の復興に奔走し、4年後に再建した。1799年︵寛政11︶には、幕府の命により徳川家康一代の記﹃逸史(いっし)﹄を献納した。享和(きょうわ)4年2月5日75歳で死去。
﹇上田 穣 2016年6月20日﹈
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中井竹山
生年‥享保15.5.13(1730.6.27)
江戸時代中期の儒学者。大坂生まれ。名は積善,字は子慶,通称は善太。竹山居士,同関子,渫翁,雪翁と号した。中井甃庵,早の長男。諡 は文恵。先祖は前田玄以,黒田如水に従い,曾祖父は医として脇坂氏に仕え播州竜野(兵庫県竜野市)に移った。2歳下に弟・履軒がいる。4子蕉園,7子碩果が学を継いだ。竹山誕生の年,懐徳堂初代学主三宅石庵が没し,父甃庵が2代学主となった。10歳ごろから学問に発憤,寛保3(1743)年父の親友で堂の助教五井蘭洲に師事した。宝暦8(1758)年父が没し,遺言により三宅石庵の子春楼が3代学主,竹山は預り人として学務に携わった。11年秋以降は2日・7日の朝講を担当,翌年蘭洲没後は教授を兼ねた。天明2(1782)年53歳,春楼没後,4代学主となり,朱子学を標榜,大いに堂風を振起し,弟履軒の協力もあり,その最盛期を築いて従学者が多かった。8年大坂巡視の松平定信より時務を下問された。寛政4(1792)年懐徳堂は類焼したが復興に努め,8年再建。翌年預り人を長男蕉園に譲った。竹山は偉丈夫で経世的識見に富み,学は程朱(宋学)を宗としつつ陸王(陽明学)も斥けぬ融通性を具え,経学文章を併せ尊んだ。詩文をよくし,混沌社の文人とも雅交を結んだ。墓所は大阪上本町誓願寺。<著作>﹃詩律兆﹄﹃非徴﹄﹃東西遊記﹄﹃草茅危言﹄﹃逸史﹄﹃奠陰集﹄﹃竹山国字牘﹄<参考文献>西村時彦﹃懐徳堂考﹄(復刻,1984),加地伸行等﹃中井竹山 中井履軒﹄
(水田紀久)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
中井竹山 (なかいちくざん)
生没年:1730-1804(享保15-文化1)
江戸中期の大坂の儒学者。名は積善,字は子慶,通称は善太。竹山,同関子,渫翁︵せつおう︶,雪翁と号した。曾祖父は播州竜野脇坂氏に仕えたが,父甃庵︵しゆうあん︶は来坂,三宅石庵︵万年︶の後を受け懐徳堂の2代学主となった。竹山は弟履軒とともに父および五井蘭洲に導かれ,懐徳堂4代学主として堂風を振興した。朱子学を標榜したが柔軟な学風で,経世的識見に富み,かねて詩文をよくし,片山北海の主宰する詩文の結社混沌社の連中とも親交を結んだ。著書は荻生徂徠の︽論語徴︾を批判した︽非徴︾︵1767成立,1784刊︶のほか,老中松平定信に献じた経世論︽草茅危言︵そうぼうきげん︶︾︵1789序︶,徳川家康の一代記︽逸史︾︵1799刊︶,近体詩の声律を平仄︵ひようそく︶の配列から研究した漢詩作法書︽詩律兆︾︵1758序,1776刊︶,詩文集︽奠陰集︾︵淀川の南の意,各体の作品を網羅︶や紀行文︽東西遊記︾など各分野に及ぶ。
執筆者‥水田 紀久
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中井竹山【なかいちくざん】
江戸中期の朱子学者。名は積善(せきぜん),字は子慶(しけい),通称は善太。大坂の人。甃庵(しゅうあん)の長子,弟は中井履軒(りけん)。五井蘭洲に学ぶ。懐徳堂二代学主となり,その全盛時代を招いた。経世(けいせい)の論を立て,必ずしも朱子学に拘泥しなかった。著書に︽東征稿︾︽逸史(いっし)︾︽草茅危言(そうぼうきげん)︾︽中庸定本︾などがある。
→関連項目佐藤一斎|山片蟠桃|夢の代
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中井竹山
なかいちくざん
1730.5.15~1804.2.5
江戸後期の儒者。父は中井甃庵(しゅうあん)。名は積善,字は子慶,通称善太。大坂生れ。大坂の懐徳堂第4代学主として学校経営に力を注ぎ,弟履軒(りけん)とともに懐徳堂の黄金期を形成。詩文に優れ,混沌社同人らとも広く交流した。また松平定信の諮問に答えて,幕政の改革案をのべた﹁草茅危言(そうぼうきげん)﹂を献上するなど,たんなる町人学校にとどまらぬ官許学問所としての公的な使命を追求した。師の五井蘭洲(ごいらんしゅう)の遺稿﹁非物篇﹂を刊行し,自身も徂徠学批判の書﹁非徴﹂を著した。
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中井竹山
なかいちくざん
[没]享和4(1804).2.5. 大坂
江戸時代中期~後期の折衷学派の儒学者。名は積善,字は子慶,号は竹山,同関子,渫翁。懐徳堂の創始者中井甃庵 (しゅうあん) の長子。履軒の兄。朱子学を五井蘭州に学び,天明2 (1782) 年4代懐徳堂学主となり,全盛時代を築いた。同8年松平定信の諮問に答え,大著﹃草茅危言﹄を著わし,政治,経済,制度,風俗など,経世上の万般を論じた。その他﹃非論語徴﹄﹃逸史﹄﹃社倉私議﹄﹃詩律兆﹄などの著がある。
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中井竹山 なかい-ちくざん
1730-1804 江戸時代中期-後期の儒者。
享保(きょうほう)15年5月15日生まれ。中井甃庵(しゅうあん)の長男。中井履軒の兄。五井蘭洲(らんしゅう)に師事して朱子学をまなぶ。天明2年大坂の学問所懐徳堂の4代学主となる。徂徠(そらい)学批判の「非徴」をあらわした。享和4年2月5日死去。75歳。大坂出身。名は積善。字(あざな)は子慶。通称は善太。別号に同関子,渫翁,雪翁。著作に「草茅(そうぼう)危言」「逸史」など。
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中井竹山
なかいちくざん
江戸後期の儒学者
甃庵 (しゆうあん) の長子。大坂の人。陽明学・朱子学を学び,父の死後懐徳堂学主となった。封建道徳をすすめ,算術・医術・碁・将棋などを商用の社交として許し,懐徳堂の全盛期を現出。寛政異学の禁のときは官学側の立場にたった。また政治上の意見書﹃草茅危言 (そうぼうきげん) ﹄を松平定信に上呈,参勤交代・常平倉・物価・米相場などを論じた。
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中井竹山 (なかいちくざん)
生年月日:1730年5月13日
江戸時代中期;後期の儒学者
1804年没
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世界大百科事典(旧版)内の中井竹山の言及
【懐徳堂】より
…自由な学風で,程朱の学を本としたが,陸王の書なども講じ,町人にふさわしい教育に重きを置いた。学主(教授)は石庵から甃庵,三宅春楼,[中井竹山],中井履軒,中井碩果,並河寒泉と継ぎ,1869年(明治2)廃校。竹山の時代(18世紀末ごろ)は全盛で,懐徳堂の名は天下に高かった。…
※「中井竹山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」