デジタル大辞泉
「俊寛」の意味・読み・例文・類語
しゅんかん〔シユンクワン〕【俊寛】
﹇1143~1179﹈平安末期の真言宗の僧。鹿ヶ谷(ししがたに)の山荘で藤原成親・成経父子や平康頼らと平清盛討伐の密議をしていたのが発覚して流島となり、鬼界ヶ島で没した。
謡曲。四番目物。喜多流では﹁鬼界島﹂。平家物語に取材。鬼界ヶ島に流されている俊寛はかつての仲間の成経・康頼が赦免されるのを悲しく見送る。
倉田百三の戯曲。大正7年︵1918︶﹁白樺﹂誌に発表。大正13年︵1924︶、帝国ホテル演芸場にて上演。
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しゅんかんシュンクヮン【俊寛】
(一)[ 一 ] 平安末期の真言宗の僧。後白河院の近臣。治承元年︵一一七七︶、藤原成親らと鹿ケ谷の山荘で後白河院を擁して平氏を討伐する謀議を企てたが、発覚し、鬼界ケ島に流された。翌年の大赦にも、俊寛だけは許されず、島に残された。その波乱にとんだ生涯は謡曲・浄瑠璃・歌舞伎などに文芸化され後世に広く伝えられた。生没年不詳。
(二)[ 二 ] 謡曲。四番目物。各流。世阿彌の作と伝えられる。古名﹁俊寛僧都(そうず)﹂。平家打倒の陰謀があらわれて鬼界ケ島に流された俊寛・康頼・成経の三人が今の境涯を嘆きあっていると、都から赦免の使が来て、康頼と成経は許され、哀願する俊寛一人は島に残される。﹁平家物語﹂による。喜多流では﹁鬼界島﹂という。
(三)[ 三 ] 浄瑠璃﹁平家女護島(へいけにょごのしま)﹂の二段目﹁鬼界ケ島の段﹂の通称。
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俊寛 (しゅんかん)
生没年:1143?-79?(康治2?-治承3?)
平安末期の僧。後白河院近臣,法勝寺執行。村上源氏雅俊の孫,仁和寺法印寛雅の子。1177年︵治承1︶同じく院の近臣藤原成親,西光︵さいこう︶らとともに京都鹿ヶ谷︵ししがたに︶の山荘で平氏討滅を謀議したが,多田行綱の密告で露顕し,計画は失敗に終わった︵鹿ヶ谷事件︶。同年6月3日藤原成経,平康頼とともに薩摩国鬼界ヶ島に配流された。翌年中宮平徳子の安産を祈る大赦に俊寛だけはゆるされず,同島で没した。
執筆者‥飯田 悠紀子
伝承
︽平家物語︾によれば平判官康頼と丹波少将成経は島内を熊野詣の霊場に見立て,また康頼は祝詞を作り,率都婆を海に流すなどして帰洛を祈ったが,俊寛は︿天性不信第一の人﹀にて神仏にも祈らず,翌年の中宮徳子の御産にともなう大赦では,俊寛一人が謀反の張本として島に残される。俊寛は餓鬼に見まがうほど落ちぶれるが,京で召し使っていた侍童の有王︵ありおう︶から,都での妻子の死などを知らされ,悲嘆のうちに死んでいく。有王は俊寛の遺骨を高野山に納めて出家し,諸国七道を修行して主の後世を弔ったという。柳田国男は伝承者としての有王の役割に注目して,有王の名が俊寛の亡魂の消息を語る高野聖たちの通り名だったとし,九州地方を中心に近畿・北陸にまで伝えられる俊寛・有王の伝説にしても,有王を称する複数の伝承者の足跡と無関係ではないとしている。富倉徳次郎は康頼を中心に語られる鬼界ヶ島説話の前半部に注目して,この説話の出所を,康頼が帰洛後住んだ東山の双林寺周辺に求めている。康頼は,説経の手控え本ともいうべき説話集︽宝物集︾の作者とされる人物でもある。なお,謡曲︽俊寛︾には,俊寛が熊野詣から帰った康頼,成経を出迎え,水酒の宴を催すところを加えているが,大筋において︽平家物語︾に直接取材している。近松門左衛門作︽平家女護島︵へいけによごのしま︶︾では,平教経のはからいで俊寛にも赦文が与えられるが,成経の愛人千鳥の悲嘆を見かねて,彼女を船に乗せることにし,これを拒んだ瀬尾を刺し殺して俊寛は自分から島にとどまっている。
執筆者‥兵藤 裕己
俊寛 (しゅんかん)
能の曲名。喜多流は︽鬼界島︵きかいがしま︶︾と称する。四番目物。作者不明。シテは俊寛僧都。清盛の娘の中宮が懐妊し,安産祈願のために赦免使︵ワキ︶が鬼界島に赴く。島に流されているのは,平氏政権転覆を謀った俊寛,丹波少将成経︵ツレ︶,平判官康頼︵へいはんがんやすより︶︵ツレ︶の3人だった。3人が,谷水を酒になぞらえて飲み交わし,栄華の昔をしのび,今の身の上を嘆いているところへ,使いが到着する。赦免状に自分一人だけ名がないと知った俊寛は,怒りと絶望にうちふるえる︵︿クドキグリ・クドキ・クセ﹀︶。舟出の時が来て,艫綱︵ともづな︶にしがみつく俊寛は突き離される。力も尽きた俊寛は,なぎさから寂しく舟影を見送る︵︿ロンギ﹀︶。平曲の︽足摺︵あしずり︶︾の劇化なので,︽大原御幸︾などと同様に舞踊的部分が皆無である。シテはこの能専用の︿俊寛﹀という面をかけるが,能では現に生きている男役が面を用いるのは,はなはだ異例である。人形浄瑠璃︽平家女護島︵へいけによごのしま︶︾の原拠。
執筆者‥横道 万里雄
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俊寛(僧侶)
しゅんかん
(?―1179)
平安末期の僧侶(そうりょ)。村上源氏の大納言(だいなごん)雅俊(まさとし)の孫で、仁和寺法印(にんなじほういん)寛雅(かんが)の子。父が長らく法勝寺(ほっしょうじ)上座(じょうざ)の地位にあったところから、いち早く後白河(ごしらかわ)法皇の信任を得て法勝寺執行(しゅぎょう)に任じられ、また法皇の近習(きんじゅう)となった。俊寛はかねて平清盛(きよもり)の専横を憎んでいたため、1177年︵治承1︶同じく院の近習であった藤原師光(もろみつ)︵西光(さいこう)︶、藤原成親(なりちか)、平判官康頼(やすより)らとともに、平氏討伐の謀(はかりごと)を京都東山の鹿ヶ谷(ししがたに)山荘でめぐらした。しかしその企てに参加していた多田行綱(ただゆきつな)の密告によって謀議は失敗、彼らは全員捕らえられた。世にいう鹿ヶ谷事件がこれである。かくして俊寛は同年6月3日、藤原成経(なりつね)、平康頼とともに福原に送られ、ついで薩摩(さつま)国︵鹿児島県︶の鬼界ヶ島(きかいがしま)に流された。翌78年7月3日、中宮御産祈祷(きとう)のための大赦があって、成経、康頼の両名は帰京を許されたが、ひとり俊寛のみは同島に残留を命じられた。その後の彼の動向を知る史料は﹃平家物語﹄や﹃源平盛衰記﹄など小説的に脚色されたものが大半であるため、正確にはわからないが、流罪生活3年にして同島で没したことは確かであろう。享年37歳という。俊寛の流罪生活のありさまは各種の能に脚色され、浄瑠璃(じょうるり)、歌舞伎(かぶき)にも取り入れられた。近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)作の浄瑠璃﹃平家女護島(にょごのしま)﹄はその代表的作品である。
﹇鈴木国弘﹈
俊寛(能)
しゅんかん
能の曲目。四番目物。五流現行曲。喜多(きた)流は曲名を﹁鬼界島(きかいがしま)﹂とする。作者不明。出典は﹃平家物語﹄。赦免の使い︵ワキ︶が船頭︵アイ︶を伴って出、鬼界島に赴くことを告げる。2人の流人、成経(なりつね)・康頼(やすより)︵ツレ︶は帰国を祈る神信心の態。それを白眼視する俊寛︵シテ︶。孤島での生活を悲しむ3人。そこへ赦免の使いが到着する。俊寛はおうへいに赦免状を康頼に読み上げさせる。赦免にひとり漏れた俊寛は、絶望し、せめて九州まで乗せてくれとかきくどく。乗船する人々。袖(そで)にすがり、舟︵作り物︶のともづなにすがった俊寛も、浜辺に倒れ伏して慟哭(どうこく)する。慰める人々。去っていく船。ひとり残された俊寛。方形の舞台と長い橋懸りをもつ能舞台の、演出効果の際だつ終曲である。極限状態の人間の弱さを描く現在能の名作。﹁俊寛﹂という専用面を用いる。打ちひしがれた流人の俊寛、反骨精神のあらわな俊寛、神経質な陰謀家らしい俊寛等々、さまざまな演出の主張がある。なお、﹁俊寛﹂の通称で知られる近松門左衛門の浄瑠璃(じょうるり)﹃平家女護島(へいけにょごのしま)﹄二段目﹁鬼界が島﹂は本曲によっている。
﹇増田正造﹈
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俊寛
平安末期の僧。後白河院の近習僧,法勝寺執行。村上源氏源雅俊の孫で木寺法印寛雅の子。父寛雅のあとを襲い仁安(1166~69)ごろから法勝寺執行としてその名がみえ,膨大な法勝寺領を管掌し,院関係の仏事を勤めた。承安4(1174)年には八条院の御堂供養なども行い,子の俊玄を法橋にしている。長年後白河院の側近く仕えていたためか平氏に対する不満が募り,治承1(1177)年院近臣の藤原成親や西光らと共に鹿ケ谷の山荘(﹃平家物語﹄では俊寛の山荘とあるが,﹃愚管抄﹄は俊寛の次の法勝寺執行静賢のものとする)で平氏打倒計画を企てるが多田(源)行綱の裏切りにあい,たちまち平清盛によって追捕され,薩摩国(鹿児島県)硫黄島に配流された(鹿ケ谷事件)。配流後の動向については記録類から一切姿を消してしまうため物語類に頼らざるをえない。﹃平家物語﹄では俊寛のその後について非常に詳細であるが,物語中の俊寛はことさら悲惨な状況におかれることによって有王説話の冥界訪問譚の脇役としての役割を負い,どこまで真実が含まれているのかかなり疑問である。しかし﹃愚管抄﹄に﹁カシコニテ又俊寛ハ死ニケリ﹂とあるので,配流地での死去はほぼ間違いなかろう。実像はあまり明確でないが,その境遇の悲劇性の故に能や浄瑠璃,歌舞伎などの主題ともなり,また現代劇にも取りあげられている。
(木村真美子)
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俊寛【しゅんかん】
︵1︶能の曲目。︽鬼界島(きかいがしま)︾とも。四番目物。人情物。五流現行。世阿弥作ともいうが不定。︽平家物語︾に取材したもので,平家討伐の陰謀がもれて鬼界島に流された俊寛ら3人に都から赦免の使がくるが,俊寛一人許されず島に残される。極限状況における人間の弱さを描いた深刻な劇能で舞を伴わない。シテはこの曲専用の俊寛という面を用いる。︵2︶近松門左衛門作の浄瑠璃の通称。本外題︿平家女護島﹀。1719年初演。平清盛,文覚,常盤(ときわ)御前,牛若丸,俊寛らの話をおりこみ,能の影響も受けている。翌年歌舞伎化された。二段目鬼界島の段は独立しても上演され,地歌︵繁太夫物︶︽千鳥︾にも取り入れられている。
俊寛︻しゅんかん︼
う)。後白河院の信任を得て近臣として活躍し,1177年藤原成親(なりちか)や藤原師光(もろみつ)︵西光︶らと京都東山の鹿ヶ谷(ししがたに)の山荘で平家討伐の謀議をめぐらした。捕らえられて鬼界ヶ島(きかいがしま)へ配流(はいる)され大赦(たいしゃ)にも許されず死んだ。→鹿ヶ谷事件
→関連項目硫黄島︵鹿児島︶
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俊寛
しゅんかん
能の曲名。四番目物。中宮の安産祈願のため,大赦を伝える赦免使 (ワキ) が鬼界ヶ島へ下る。鬼界ヶ島では,流人の丹波少将成経 (ツレ) と平判官康頼 (ツレ) が,熊野三社を勧請して都への帰参を祈る。俊寛 (シテ) は道迎えに2人に酒をすすめて都をなつかしむうちに,赦免使の船が着き,成経,康頼の大赦を伝える。赦免状にわが名のない俊寛は驚き悲しむ (クセ) が,赦免使の船は成経と康頼を乗せ,船にすがる俊寛を残し,都でとりなすと約しつつ去っていく。同じ題材により,浄瑠璃では享保4 (1719) 年8月に近松門左衛門作﹃平家女護島﹄が大坂竹本座で初演され,これが歌舞伎でも上演されるほか,近代にいたって小山内薫,倉田百三が同名の戯曲にした。
俊寛
しゅんかん
[没]治承3(1179).9. 鬼界ヶ島
平安時代の僧侶。僧都。法勝寺執行 (しゅぎょう) 。祖父は大納言源雅俊。父は仁和寺法印寛雅。後白河院の信任を得た。藤原成親,師光らは俊寛の鹿ヶ谷 (ししがたに) の山荘に会合して平氏打倒のための相談をしたが (→鹿ヶ谷事件 ) ,多田行綱の密告によって発覚し,治承1 (1177) 年6月逮捕されて共謀者藤原成経,平康頼らとともに薩摩鬼界ヶ島に流された。翌年中宮御産の大赦により,成経と康頼は京都に召還されたが,俊寛は許されずに島に残された。彼の鬼界ヶ島残留の悲劇は後世の能,浄瑠璃,歌舞伎の題材となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
俊寛 しゅんかん
寛雅の子。後白河法皇の近習で,法勝寺執行(しゅぎょう)をつとめる。安元3年(1177)藤原成親(なりちか),師光(もろみつ)らと平氏打倒をはかる。多田行綱の密告で捕らえられ(鹿ケ谷事件),平康頼(やすより)らと薩摩(さつま)(鹿児島県)鬼界ケ島(硫黄島)に流罪となる。翌年の赦免でも俊寛ひとりゆるされず,同地で没した。﹁平家物語﹂に悲劇的にえがかれ,能や浄瑠璃(じょうるり)などの題材となった。
︻格言など︼是乗せてゆけ,具してゆけ(﹁平家物語﹂)
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俊寛
しゅんかん
生没年不詳。平安後期の真言宗僧,後白河法皇の近臣。仁和(にんな)寺寛雅(かんが)の子。出家後少僧都(そうず)に昇り,父の跡をついで法勝(ほっしょう)寺座主(ざす)となる。1174年(承安4)八条院の仁和寺蓮華心院供養に上座を勤め,その賞によって子俊玄(しゅんげん)が法橋に任じられる。77年(治承元)鹿ケ谷(ししがたに)山荘での平氏追討謀議が発覚し,藤原成経(なりつね)・平康頼(やすより)とともに薩摩国鬼界ケ島に流罪となり,同地で没した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
俊寛
しゅんかん
平安末期の真言宗の僧
権大納言源雅俊の孫。法勝寺の執行 (しゆぎよう) 。後白河上皇の近臣。1177年鹿ケ谷で平氏討滅の謀議を企てたとの理由で藤原成親らとともに逮捕され,薩摩国︵鹿児島県︶鬼界ケ島に流された。ひとり大赦から除外され,その翌年37歳で没したという。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
俊寛
(通称)
しゅんかん
歌舞伎・浄瑠璃の外題。- 元の外題
- 平家女護島 など
- 初演
- 享保5.1(大坂・竹島座)
俊寛
しゅんかん
歌舞伎・浄瑠璃の外題。- 初演
- 享保5.夏(京・榊山座)
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の俊寛の言及
【足摺】より
…フシ物。平氏政権転覆の謀議の罪で鬼界ヶ島に流されたのは,俊寛僧都・丹波少将成経・平判官(へいはんがん)康頼の3人だった。清盛の娘の中宮が懐妊し,安産祈願の特赦で使いが島に赴く。…
【有王】より
…︽平家物語︾巻三︿有王﹀︿僧都死去﹀の登場人物。法勝寺執行俊寛僧都に仕えた侍童。鹿ヶ谷︵ししがたに︶事件で俊寛が流されてのち,鬼界ヶ島を訪ねてその最期をみとり,遺骨を高野山奥の院に納めて法師になった。…
【硫黄島】より
…【鎌田 政明】【横山 勝三】
[歴史と伝承]
産出する硫黄で海面まで黄色くなるのでかつては黄海ヶ島,鬼界島,貴海島と呼ばれた。1177年(治承1)平氏の六波羅政権を倒す計画に失敗した[俊寛],藤原成経,平康頼らが配流された島で(《愚管抄》),《平家物語》では鬼界島と書かれている。成経,康頼が大赦で帰島後,俊寛は悲嘆のなかで没した。…
【喜界島】より
…気候は亜熱帯的で,全島にガジュマル,ソテツ,アダンなどが自生し,海岸にはサンゴ礁が発達する。古くから大和朝廷と交流があり,源為朝や僧俊寛が来島したと伝えられ,俊寛のものという墓もある。また戦いに敗れた平家の一門が逃れてきたといわれ,これらにまつわる伝説,故地が多い。…
【鹿ヶ谷事件】より
…1177年(治承1)後白河法皇の近臣が平氏打倒を企てた陰謀事件。権大納言藤原成親,僧西光(藤原師光)が中心となり,平康頼,僧俊寛,藤原成経(成親の子)らが加わった。俊寛の京都東山鹿ヶ谷の山荘で謀議をこらしたので,こう呼ばれる。…
【能面】より
…瘦男︵やせおとこ︶や蛙︵かわず︶は死相を表し,三日月や阿波男,怪士︵あやかし︶などは神性の表現に特徴がある。平太︵へいた︶と中将は特に武将の霊に用い,頼政や景清,俊寛など特定の人物への専用面も現れた。喝食︵かつしき︶,童子など美貌若年の面のなかにも,蟬丸や弱法師︵よろぼし︶,猩々︵しようじよう︶といった特定面ができてくる。…
【峰定寺】より
…本堂の裏山は修験の行場となっており,山上には蔵王権現がまつられている。参道にある宝篋印塔は俊寛僧都の塔と伝え,俊寛の妻子が隠れたという獅子岩がそのそばにある。︻藤井 学︼。…
【足摺】より
…フシ物。平氏政権転覆の謀議の罪で鬼界ヶ島に流されたのは,俊寛僧都・丹波少将成経・平判官(へいはんがん)康頼の3人だった。清盛の娘の中宮が懐妊し,安産祈願の特赦で使いが島に赴く。…
※「俊寛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」