大垣藩(読み)おおがきはん

改訂新版 世界大百科事典 「大垣藩」の意味・わかりやすい解説

大垣藩 (おおがきはん)


160055162宿2413363510西3372562︿西︿4881

 18389西

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藩名・旧国名がわかる事典 「大垣藩」の解説

おおがきはん【大垣藩】

 
()() ()()()1601()6()53()2525()635()12()() ()10()()112()3西()9()()18714  

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大垣藩」の意味・わかりやすい解説

大垣藩
おおがきはん

江戸時代、美濃(みの)国(岐阜県)西部の内を領有した藩。大垣に藩庁を置いた。譜代(ふだい)。関ヶ原の戦い後、石川氏3代、松平(久松)氏2代、岡部氏2代、松平(久松)氏1代と藩主がかわって、1635年(寛永12)戸田氏鉄(うじかね)が尼崎(あまがさき)から転封。以後廃藩まで11代235年間戸田氏が藩主となった。10万石。ほかに幕末期までに幕府預所(あずかりしょ)6万9000石余を支配。氏鉄は俸禄(ほうろく)制を採用し、新田を開発、新たに高1万3000石を得て、藩政の基礎を固め、3代氏西(うじあき)の代に藩法規「定帳(さだめちょう)」が作成された。藩の財政難は9代氏正(うじただ)に至って深刻化、1850年(嘉永3)改革派の小原鉄心(おはらてっしん)を登用して財政整理や軍制改革を断行した。鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いでは幕軍として参加したが、鉄心は藩論を勤王に統一、会津若松城を攻めて功があった。藩校致道館(後の敬教堂)は藩学をおこしたが、氏正の洋学奨励は、明治期の官界や学界に多くの人材を送るもととなった。

[村瀬円良]

『『新修大垣市史 通史編』(1968・大垣市)』

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百科事典マイペディア 「大垣藩」の意味・わかりやすい解説

大垣藩【おおがきはん】

美濃(みの)国大垣に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。関ヶ原の戦後石川氏が入部して立藩,その後松平(久松)氏・岡部氏・松平(久松)氏,1635年からは戸田氏が在封。戸田氏時代に藩政が確立した。幕末期藩医であった西洋医学者江馬蘭斎(らんさい),植物学者宇田川榕庵(ようあん)などは著名。
→関連項目今須美濃国

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大垣藩」の意味・わかりやすい解説

大垣藩
おおがきはん

 
 () 6 (1601) 52 (16) 51 (24) 510612 ()  () 10  

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デジタル大辞泉プラス 「大垣藩」の解説

大垣藩

美濃国、大垣(現:岐阜県大垣市)を本拠地とし、同国西部を領有した藩。関ヶ原の戦い後、徳川家譜代の家臣・石川康通が5万石で入封。以後の藩主は松平(久松)氏、岡部氏など。寛永年間に尼崎から転封により入封した戸田氏は廃藩まで11代続いた。

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世界大百科事典(旧版)内の大垣藩の言及

【戸田氏鉄】より

…江戸初期の大名。近江膳所(ぜぜ),摂津尼崎藩主から,1635年(寛永12)大垣藩10万石に移封され,51年(慶安4)致仕。大垣藩主時代,地方知行(じかたちぎよう)制から俸禄制への移行,走り百姓禁止などの農民政策,1300石余の新田開発や勧農政策の推進,夫役代米納制の確立,山林保護・治水施策など,大垣藩体制確立の基礎を築いた。…

※「大垣藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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